私が彼女の話をするとなると、いつだって『はじめて愛した』の話に至る。
お顔立ちはまだ愛らしく、(役柄もあったけれど)大きな身体を使ってぎこちない様子で銃を振り回していた。それが、私と舞台に立つ彼女との出会いだったのだと思う。
音楽学校の生徒募集における「あなたが、だれかの夢になる」姿は存じていたし、その頃、新人公演主演も既に果たしていた彼女の舞台姿。正直、いろんな意味で椅子から転げ落ちそうになり、印象に残って今に至る。
あの日から、どれほどの時が流れただろう。
どこに意志を込めるか
宝塚歌劇団が抱える現在進行系の問題は、宙組だけに限ったことではない。そして、観るなどして関わる限り、それら問題とも無関係ではいられないことをちゃんと心に留め続けたい。
さて、ここまでの宝塚歌劇の道のりには大きな功績があると思う。そこには表には見えてこないものも含め大きな犠牲も存在するのだろう。すべてが過去になり、そのうち一部の視点が歴史になる。その過程で、時に誰の目にも触れられもしないままの悲喜交交の思いが交差してきたはずだ。
大きくな(れな)い声というものは、おそらくどんな世界にも存在する。全うできたか、そうでないか。つまり、成功した人の姿が見えがちという側面は確かに存在する。しかし、私はその事自体が悪いとは思わない。どれだけつぶさに見つめられるかが問われ続けると思うし、実のところ私はそうありたいと考えている。そもそも成功って何だろうか。
話を戻すと、彩風咲奈は無にしないということが伝わった。言葉にし、形に残した。彼女の意志は、それだけでとてつもなくかっこよかった。
だからこそ、一禾さんに、この舞台にいてほしかった。それが叶わなかったのが現実だとファンとして見つめているが、彩風さんはこの事実に向き合っている人なのだなと改めて思った。
惜しみなく愛を伝える
トップスターとしての彼女から感じ続けた姿勢だ。
冒頭に記した通り、だれかの夢になる期待を寄せられ続け生きてきた彼女だからこそ、喜び楽しさだけではなく挫折苦難、それらからの底知れない努力と学び、そして何かもあったのだろうと推察する。
ここで、数多の逸材の中でもなぜ彼女が? という問いが少なからず生まれるのだけれど、それが最後の日に向けて種明かしされることになるとは思っても見なかった。
私は、初見として宝塚大劇場千秋楽の配信を拝見した。その感想は「どうやって今を生き、未来に活かすか」。究極の選択を見せつけられたという言葉に尽きる。
また、昨今トップスターの退団が続くので、嫌が奥にも比較できてしまうが、言ってみれば「彩風咲奈はフルスロットル」だ。
110周年に執り行われた花組・月組のサヨナラショーも、それぞれ違った良さが存分に詰まっていて、色んな形に魅了された結果を振り返ると、これこそ多様と、なんだか面白く思うのだ。
配信での視聴だが、花組の柚香光サヨナラショーは花組らしいと言わんばかりのオーソドックスさ。待ってました! 感。そして、『はいからさんが通る』『アナスタシア』は、彼女たちにとってかけがえのない作品であったと同時に、コロナ禍や様々な出来事の象徴だとも感じ入る。それでも笑顔で去りゆく強さ。
月組の月城かなとサヨナラショーは散々書いたが、一言で言うならば主演からの上品な挑発という核を持った置き土産と捉えている。笑いながらこぶしって握れるんだなあ。(言い方)
つまるところ彼女たちの存在は、役割だけに収まらない。これだけ人と金と時間が投資されているのだから、ある意味当然なのだけれど。
閑話休題。
彩風さんは退団公演の前後に、コンサートとディナーショーを開催した。
私は直接拝見できなかったけれど、『ALL BY MYSELF』では、様々な娘役さんとデュエットダンスを踊ったという。また『LAST MISSION』では、これからを支える若手男役陣が選出される密な時間としての構成である。配信を拝見し、タイトルのラストには己の「最後」の意味に加えて、「続く」の意味が込められていることをひしひしと感じさせられた。
これらは、男役娘役それぞれに、場を与える目的で開催しているようにも取れる。
勿論、自分のファンへの想いもあると思うし、事実それらの公演は、形を変えたサヨナラショーが繰り広げられているかのような作品群だった。
しかしそれ以上に、どうやって自分が機会を作れるか。自身が愛するものをどうやったら守れるか。自分に何ができるか。
そんなことを懸命に考えている方なのだろうなと、ひしひしと感じたのだ。
後ろへ続く(はずの)宝塚への惜しみない愛がダダ漏れて、雪解け水が川の流れに混ざり海につながっていく世界観のようなものが今の雪組に成り立っているのかもしれない。
その愛の裏返しというか地続きの関係で、今回の『ベルサイユのばら』フィナーレは、彩風咲奈と組子という構成で創られたのではないかと思っている。しかし『LAST MISSION』でも感じたのだが、基本的に彩風さんの体力に、惚れる。
一方で、彩風さん自身にウェットなイメージはあまり持っていない。相手役に対しても良い意味で、ベタベタしない。冷たいのではなく、人として/公としての信頼と自律を感じる。
私は、さききわコンビの、しんしんと降り積もる雪のような「厳しさとあたたかさ」が共存するような関係性がとても好きだったし、さきあやの「自由とガッツ」なコンビ像も素敵だ。*1
どちらにおいても、娘役トップの相手役そしてトップスターとしての彼女のスタンスは、背中を見せつつ、ついてこい! という凛々しさがある。荒っぽさとも言える存在感は、最近のトップスター像としては新鮮だった。
今でも思い出すのは、お披露目公演のシティ・ハンターの衝撃。やだ、もう咲ちゃんなんて呼べない! となった妙な記憶。懐かしいなぁ。
*2
昨今の劇団の対応の中で信用できないと思うことが残念ながら増えていくが、こんな印象を与える彩風さんが宝塚を去りゆくことが寂しいのと併せて、不安を感じることがあることを記してしまう。
彼女にとっての宝塚
公演の最後、階段降りにて「愛の面影」でもなく新曲でもなく「我が心の故郷」を歌う、舞台上でたった一人のスター。
これは、フェルゼンというより彩風咲奈その人であった。
「ベルサイユのばらは彩風咲奈(のため)に(も)あり、彩風咲奈はベルサイユのばら(のため)に(も)あった」のかと、最後の最後にはじめて気付かされた。
そう、今回の公演はベルサイユのばら〜彩風咲奈編〜だった。
彼女が率いる雪組によるベルサイユのばらはどんなものだったかというと、良くも悪くも「宝塚のベルサイユのばら」である印象に変わりはない。けれど、新鮮に感じた点を書くとするならば、フェルゼンの孤独、そしてエゴイズムが一段と色濃く見えたことである。
愛する人にさえ最後は拒絶されたうえで死にゆかれ、それでも生き続けるのがフェルゼン。オスカルもアンドレも仲間と呼べそうな者は皆死に、それでも生き延びるのがフェルゼン。
エゴイズムの報いだと言われればそれまでかもしれないが、彼がボコボコになぶり殺されるという結末までを舞台でどうか描いてほしいというのは、フェルゼン派である私の欲望・願いとして変わらないけれど、今回改変のあったアントワネットとの出会いといい、フェルゼン編という名に呼応する内容だった。
彼女のために書かれた新曲が、別れを歌う曲であることからも分かる通り、孤独を纏えるからこそ、彩風咲奈はフェルゼン役者なのだ。(しかしオスカルは初対面のフェルゼンをひっぱたきはしないだろうというツッコミはしたい。しかしその後の態度で、やがて親友となる関係性を匂わせたのは良かった。匂わせただけでなく描いてほしいと欲目がどんどん溢れるので自重する。)
ここで話はまたそれるが、トップスターは孤独だと、だいぶ昔に某OGが仰っていたことが私の記憶に刻まれている。
この言葉を受けて、特別には孤高を強く感じ取り、”選ばれし者は辛いんだなぁ”と勝手に推測していた。
けれど、彩風さんの場合、その孤独をたたえてこそ見える世界があるのだということに、目を背けることなく気付かせてくれる気がするのだ。何も彩風さんが孤独と言いたいのではない。言うなれば、芸風が孤独とでも言おうか。
書くだけ墓穴を掘るようだが、私にとって彩風咲奈は、その人間性に根を張って厳しさをたたえているところが、踊ったり歌ったり演技したりするよりも、実は何倍も心惹かれる要素として備えている人なのだ。
自分でもこの感情に悶々としていたところに、「歌劇」の彼女を送る言葉の数々に触れ、合点がいった。
彼女は勿論体力だけではなく、人としての器がおそらく相当デカいのだろうということ。
しかしこの真意を紐解くには、私はきっと遅すぎたのだろう。愛するには短すぎる、ね。
それでも東京の千秋楽後の挨拶を拝読し、終わりのない人生という旅に身を賭す覚悟と姿勢を既に備え、「満足させない」ことで奮い立って生きている人なのだなと改めて知った。そして、かっこよくないと言えるかっこよさ。後悔があると言える潔さ。さらけ出せる強さ、それでいて見せない部分も保つ。この加減は凡人には難しい。
自分の感情たちを受け止めている器の大きさが、言葉にあらわれている。
型があってはじめて、型破りが可能に
『ベルサイユのばら』は型があるのだということを、改めて感じた今作。
宝塚の『ベルばら』を観たことない人や、原作漫画を読んだことのない人には、分かりづらい。いやもはや意味不明かもしれない。この原作漫画の舞台化が頻繁に発生する令和において、もはや不親切な設計なのだろう。(先日ヒカルの碁の舞台を思い浮かべるなどしている。あれもユニークで面白かった。)
しかし、宝塚大劇場の千秋楽配信環境に同席していたベルばら初見の家族が、型の代表ともいえる馬車の場面やバスティーユ襲撃が始まるやいなや、見入り、面白いと言っていた事象を、私は見過ごさない。
引き込まれる型なのだと改めて実感した。
しかし、今回改変箇所が果たして効果的だったのかというと、諸手を挙げて賛同できない。オスカルが不必要に女女と揶揄される場面が減っていたのはとても良かったし、プロローグのマリーを中心に据えた構図にうんうん頷いた。しかし、市民のいきなりの現代的なダンス場面は必要だったのかとか、前述のオスカルとフェルゼンの出会いや今宵一夜までの手紙の下りや、メルシー伯と共に生じる鈴虫の鳴き声とか、ツッコミは絶えないので唐突に止める。
ちなみに、現代的なダンスと書いたことで思い出すのが、大分昔、演劇好きな友人に、「宝塚は古臭いからあまり好きではない」と言われたことだ。古臭いという点、当時はいまいちピンとこなかったのだが、おそらくこの作品などでも描かれる”古典”的な音楽・芝居・化粧などの要素を指しているのではないかと、真意を聞きそびれた私は今の今まで考え続けている。
が、結局のところ、その一種の古臭さを、私自身はたぶんとても愛している。
『琥珀色の雨にぬれて』が大好きなのも、昭和の時代に生まれたクロードという人物像がどうしようもないからこそ愛しているのだと思う。
だからこそ、私自身は救いたいというところまで思いが至る。果たしてこの気持ちがなくなることも十分あり得る中で、自分自身の変化と劇団の変化、どちらが早いか比べている感覚もある。
しかしながら、原作や再演され続けるにあたって込められた思いを共感できる方々に、再演を通して出会えることは幸せだ。加えて、この作品の輝きがこれほどまでに色褪せない背景として、何十年経っても、世の中が変わっているようで変わっていないことに気づかされることに、真の意味があるのだと思う。成長はおろか、退化しないためにも。
しかし感想を見ても、つくづくフェルゼンというキャラクタは不人気だなという悲しみにぶち当たる。それならばいっそ、究極の男のエゴイズムを男役が表現するとしてむしろもう一歩踏み込んでしまってはどうか。
それでも、彩風フェルゼンの核となる、自分が信じる愛の力の強さは、まさしくフェルゼンのものだと感じた。幸運にも間近でみられた劇場での観劇時、牢獄の場面で静かに涙を流しながらマリーの心を受け止めるフェルゼンは、悲しく虚しく、切ないながらに、これこそが最も観たい姿であったとしみじみ感じた。
最後に。
『LAST MISSION』のラスト、「灰の水曜日」を選ぶ精神に私は魅了されたのだろう。(現にセットリストに触れて配信購入を決意した者がここにいる。)
彼女は、脈々と受け継がれる美しさを極限まで体現する、大きくて、不思議な花だった。
さて、美しさとは何だろうと考える時、たまたま劇場での観劇時に読んでいた本の言葉を引用して終わろうと思う。
令和のベルばらを創り上げ、宝塚の一輪の花として散りゆく彩風咲奈の志は本当の意味で、終わらない。受け継がれゆくことを信じる者の強さに触れ、彼女自身の未来にも心を寄せたい。
彩風咲奈さん、ご卒業おめでとうございました。
美とは永遠不変な実態としてそこに存在するのではなく、絶えず移ろうものである。(中略)
花についていうなら、花はやがて咲くから美しいのであり、やがて散るからこそ美しいのだ。