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あじわう

雑記 私にとっても希望とは、

突然だが、ドラマ「エルピス」を放映後2年経ってようやく見終えた。TVerだってある世の中だというのに中々見進められなかった。ひとえに放映時の反響をふまえて、生半可な気持ちでみてはいけないと思ったからなのだが、それがどういう風の吹き回しか、単に時間が作れただけなのか、自分でもよく分からない巡り合わせで一気に見進めたのがつい最近のこと。

 

長澤まさみ演じる恵那は言った。希望とは信じられることなんだと。

本当に。そうだなと、最近(も)宝塚のことばかり考える頭は妙な実感を覚える。
そもそも正しいなんて分からない、なんてことも作中で言われていた。
そうそう、とここに私が書いたことと同じ感覚だなぁなんて思いながら見た。善玉菌と悪玉菌のたとえは、わかり易さと同時につくづくわれわれは有機体なんだとその忘れがちな事実について考えさせられた。人も、社会も、生きている。そして、こうも述べられた。

夢を見よう。
果たして夢を見られるか。それが問題だ。


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問題は誰のもの?

今の宝塚に希望はあるのかと言われて、言葉に詰まる。分からない。その理由の一つに、「宝塚」を指す言葉の範囲がとても広いことがあると思った。この人なら多分/おそらく/きっと信じられるは(それも憶測でしかないのだけれど)、ある。でもそれは誰まで、どこまで言える? 

以前からリリース一つとっても劇団の顔が見えないと常々気になっていたのが良い例で、やっぱりその主語の範囲が広くなっていくほど、私は逃げたくなる。
いや、ファンは勝手に逃げたってよいのかもしれないが、観て見ないふりをしてはいけないなと思う。
反対に、観ないで見たつもりになることも。過去に観ていた人、もっというと過去に関わっていた人が過去を振り返ってあれこれ言うのは、色んなケースがあれど……。

 

3月末の劇団からの報道に触れた際は、案の定期末前のドタバタで疲弊していたこともあり、仕事を終え、会社のPCの電源を切る前に覚悟して読んだ。途端にしんどくなって腹痛を覚えた。(子どもの時から何かあるとお腹にきてしまうタイプ)

 

今まで、なんともふわっとした、それこそ正面向いていないような発信が多かったけれど、この発信内容でどうにかようやくゼロ地点に立ったのかもしれないと感じた。道半ば、あくまでゼロ地点に立った。
しかも信じられないことに半年もかかって!

しかしまずは、途方もないと思われそうな対話を続けたことに敬意を評したい。これは、双方に対してだ。自分の非を認めることって難しいと思う。半ば知らない、考えていない、ないし、信じている場合には特に。でも正直劇団には、(自分にとっても、のはずなのだが)大事な「人」が亡くなったという相手にこんな戦いを強いる、それを続けざるを得ない状態にしてくれてしまって、なんてことしてくれたんだと心底思うのだ。二次被害にも程がある。

 

もやもやこそ本当の壁かも

ゼロ地点と書いた。それは一つの結果だ。ないよりはある方が良いと思う。だって合意があったのだから。外野はとやかく言うことではない。だがしかし、組織の問題だからと、すべて結論付けられたことに私は少なからずもやもやしていた。

個人を特定して責めるという構図にならなかった点、組織的な課題が存在すると認められた点は、説明上納得度が高いものの、生徒は何も判断できない子どもとでも思っているのかと思いたくなる、この結論そのものに、ひたすらもやもやしている。
それこそ、女子どもの観るもの、女の園としてナメられていないか。彼女たちはそんなに世間は知らずの馬鹿なのか(あえてこのように表現している、悪しからず)。正直、人として認められていない、そんな感覚が残る。

 

勿論、視座を狭くし、悪循環に陥りがちな環境をつくるという点は、認められた通り組織の問題なのだろうけれど、結果的に行為を行った人を庇い続けるようにも見えるのはなぜだろう。
謝罪の手紙という対応は分かった。でも失われた命はどうやったって戻らない。劇団名簿から知らされずにひっそりと消えてしまった(ように見える)。彼女に対して出来ることなんて本当はないのかもしれないのだけれど、せめて忘れないでいたいという気持ちを強くする。

話は戻ると、決して個人を吊し上げろと言いたいわけではない。でも前述の通り、鳥籠の中、飼い主の教えが悪くて、判断もできない哀れなモノ共だと判断されたような気持ち悪さがあるのだ。
それにも関わらず、それはそれで今までの体制はそのままでいこうね、というのは破綻していないのか。
一つの組だけを止めたにも関わらず、組織全体の問題ですから、と一声で片付けられるとお思いか。
「何となく」他の組を止める必要はないからで続けてきたとしたら、シナリオがどんどん破綻していく気がする。そもそもシナリオなんてあったのかは知らないが。仮にも会社「組織」で行っていることに、こんなにも考えなしとは、信じたくないんだけれど。

 

あれ、これでリスタートできるのだろうか。
最近の報は、宝塚の新人公演を復活させます、そして宙組は特別公演で対応していきます、である。
色々と変わるのねということは分かった。が、正直なんでその判断になったの? と言いたくなる。私が情報を読み取れていないだけなのか。私には上記「変更」の理由がわからない。
はて、さて。

 

現状のややこしさともやもやへの糸口

やってしまったことの責任の取り方の一つとして引責辞任があるが、果たしてこれが全く行われないというのはどうなのだろうか。
というのも、今回、明らかにはされないけれど、なんとなく、もしくは”明らかに”分かってしまう状態で、ファンとして舞台を観続けることは、私自身の心が苦しくなっている。

組を越えて根付いている悪しき慣習の話と、起こってしまったことへの対応の話は、つながっているけど切り分けた方が良いと、私は思う。

つくづく一つの組だけを悪い意味での特別対応にしたことで事をややこしくしているということに、中の方々は気づいていないのかもしれないなと思い始めている。が、これも所詮妄想だ。

 

とまぁこんなもやもやを抱えながら、たまたま録画していた100de名著のローティ回を拝見した。
恥ずかしながらローティという哲学者をこれまで知らなかった。しかしある書評家の発信を目にして、難しそうだけれどえーい見てみるかと思って再生した。これが今、私がぐるぐる思考していることに少し手を差し伸べてくれたような感覚になっているのが面白くて思わずここに書き留める。とはいえ一回さっと見ただけじゃ咀嚼できずテキストを購入して読んだ。それでも内容すべて理解できたかは定かではない。けれど、ここで一つもやもやに辿り着くヒントになりうるものとして、呼称の問題に触れたい。

 

前述の番組内ではルワンダのゴキブリ作戦を例に、改めて呼び方一つで、人の思考も行動も変わった事例として明示されていた。
この話に触れ、私の思考は宝塚歌劇に飛んだ。
思い当たる言葉はやはりフェアリー、そして生徒という呼び名。その先にあるのが、実はずっと感じているもやもやではないかと言うのが今の私の考えである。

大きく言うと、これらは人権が失われているかもしれない呼び名ではないだろうかという点だ。

 

名前によって生まれた壁

宝塚は特別だから。
この言葉に、中の人々、そしてファンの誇りも込められている。なんなら私の中にも刻み込まれるようにこの意識は存在感を放つ。多分、今も。そして反対に区別や軽蔑、色んな感情が向かってきている言葉でもあるようにも思う。
では、それにより守られてきたものは何だろうかと考えた時、ある種の神聖さ(と思いこんでいただけかもしれないが)と、その陰に潜む歪みも含まれていたのではないかと思わざるを得ない。

というのも、フェアリーだから霞食べて生きているという類の話ではなく、生徒だから私達とは違って、何もできない。フェアリーだから私達とは違って、何を言っても良い。
このように、我々と彼女らを分断する言葉に成り下がっているのではないか。

 

あるOGの方が、宝塚は特別なのだ、上下関係は普通の会社とは違うつながりなのだ(意訳)と述べられた言葉を目にした。
正直危ういなと思った。一言で言うと、主語がでかい。あなたの知る宝塚は在団していた時だけ。組も限定的で、果てに普通の会社にも色々あるのに何を知っているというのか。
何より自分たちで、他とは違うという意味を、こんな文脈で使ってしまうことに悲しい気持ちになって、だいぶ昔のこの発言が今も心に残っている。
言いたいことは分かるのだ。私もだいぶ長くファンでいるつもりなので、特別な空間であることも事実だ。
でも、自分たちは特別だから(起きてしまったことが)許されることではないのだよと伝えたいし、このことを認めても、貴女の過去が全否定されるわけではないということも。

OGの中でも、意志あって発言する人としない人がいて、私の中で明確に頭に浮かぶ方々がそれぞれいて、彼女らのように私が信頼できる(からといって何があるわけでもないのだけれど)そんなOGも確実にいらっしゃるのだ。なのでOGと一括りにしてもいけないが、しかし、閉鎖的な教育を受けることによる影響の大きさが感じられる言葉だった。

 

でも一方、幸いなこともある。
タカラジェンヌには必ず芸名が付く。本名の自分とタカラジェンヌとしての自分を区別する意味もあるはずだ。
私には名乗る名前が本名とSNSの名前くらいしかないので微妙すぎるのだけれど、それでも、芸名の自分と同時に本名の自分を大切にしてほしいなと、改めて思ったのだ。


これは結局、何も芸名を持つ人の話ではなく、私たちが仕事やパブリックな場にいる自分と非常にプライベートな自分を持つという、公の自分と私の自分との話になる。誰もが皆、社会に生きる以上何かしらもつ差だ。

ここで、公と私、混同するのは危険だともローティの番組では述べられていた。リベラルなアイロニストとは。私にとって今とてもしっくり来てしまう思想なので、落ち着いてまた思考を深めてみたいと思う。

動き始めないと未来はないのか

話を再び戻そう。
宙組が再開する予定が立ったということ、私はとても複雑な気持ちだ。
と書くと、あぁ私はマイナスな感情で捉えているなと再認識してしまう。
この感情の理由は宙組の状況、宝塚全体の状況が分からないからだと思う。わからないのだ、誰を信頼したらよいのか。

 

特別公演という名前。
何もショーだけの/チケット金額が、特別なだけじゃないと皆が分かるこの状況で、果たして安全に舞台が出来るのか。安全というのは何も生徒の精神面だけではない。
精神的にも、肉体的にも、物理的にも、怖いというのが正直なところ。
そろそろ劇場は手荷物検査を導入したほうが良いのではないかと割と本気で思っているのだけれど、そこは性善説なのか。

 

個人の目線に立つならば、今回の一連の内容に関わっていない(と言い切れるのかという問題も横並びで存在する話なので難しいのだけれど)、舞台を生業とする方々はようやく舞台に立てることになって、なんというか辛抱だったなと思う。コロナもあって、こんなことが起きて。仕事ができない状態というのは、辛いことだと共感する。せめてプライベートの自分によって解放できる部分があればよいなと勝手に思案していた。そして、当事者の方々の心中については何というか、私には当然分からない。


けれどこれだけは言いたい。頼むから現役生だけの問題にしないでほしい。なんというか、もう”明らか”なんだから。
ちなみに花組の千秋楽が終わったら、彼女もまた宝塚を去られるわけで。それももう本当になかったことにするの? と私は思っている。

そして、この仕事を引き受けた齋藤先生は凄いと思うけれど、他に手を挙げられる人はいたのか、中の様々な信頼関係のありようも気になる。それこそ演出家の問題だってどうするつもりなのだろう。花組のチケットが手元にあるけれどまだどうしようかと悩んでいる日々。

そもそも応援している方の退団公演中にこんなことを書く現実が本当に目を背けたい状況だ。
でも自分自身の体調もあまりよくないし、それってつまりこういうことをだらだらと考えているからだと気付いてしまうし。切っても切り離せないから、ずっと考えて居なきゃいけないし、移ろう気持ちを残しておかないと、と思う。

私にとっても希望とは、もろいものだ。
だからこそ、自分が信じられることを積み重ねていけるように、願いながら生きるしかない。

 

と書き進めていたら愛媛での大きな地震。ここのところ断続的ともいえるほどの天変地異、どうか辛い思いをする時間が少しでも減ることを祈るばかり。

 

そう、希望を持てるような世界への道を作ることだって、生きていればできるはず。それこそ、希望の正体なのかもしれない。