just arrived

あじわう

神と人、人と人の絆の意義 宝塚版RRR感想

リアルタイムで感想を書けば目に留まることが増えると実感しビビっている今日この頃。基本的に性悪説を信用しなければと心に言い聞かせている楽観主義者のため、変なことを書いてないかと不安に。時既に遅し、ショーの感想ではおかしな性癖まで暴露していた。ああ。

kageki.hankyu.co.jp

 

衝撃の走った宝塚化ニュース

原作の素晴らしさを私に語れる余地はないので(なぜなら原作を見切れていないため)(まだ本家ナートゥにたどり着けていない……)、ラージャマウリ監督のお姿を偶然客席でお見かけした時に心から念じた感謝を改めて胸に留めながら書き記そうと思う。

まず、原作が公開されてから宝塚化するまでの時間の短さよ。
ひとえに演出の谷先生の思いと仕事ぶりによるものなのかと思うと、演出家にどこまで寄りかかっているのか? と気にはなる。そしてなんで今作の後に日本の政界コメディを持ってきたくなるのかと聞きたい。三谷作品、面白くなると思うよそりゃあ。でもそこに戦略はあるのか。あるなら、選ぶまでだけれど。というか舞空瞳の娘役芝居のラストとなったら行くしか……(嗚咽)
私個人は三谷幸喜作品の内向きなところはあまり好きではなく、同様な点で宮藤官九郎作品にも手放しで喜べないのであった。最近話題だったふてほどは結局見られず今更ブラッシュアップライフを見ている。バカリズムさんてすげえのな。と言ったら家族に今更?と言われた。お笑いの世界は疎いのだ。笑いの沸点が低いのと共感性羞恥を感じやすいため見ることに非常にエネルギーが必要なのだよ。どうでもいいな、という長すぎる前置き。

 

さて本題へ、といっても一回観ただけでなんだか満足した感覚もある作品だったため、心に特に残ったものをかい摘んで。まずはナートゥでのアクタル(Akhtal)の勝利にガッツポーズする佐々田愛一郎氏はべらぼうに熱く、この目で観ることができて嬉しかったお姿であった。

 

誰の物語なのか

最初、これは神々の話かと思ったのだ。森は歌うし水は踊る。獣は叫ぶし、何なら魔法もあり? けれど下地の史実はあるわけで、むしろ泥々に差別と戦いの歴史、英雄の話でもあり、壮大なファンタジーだけどファンタジーじゃないところもある。宗教はファンタジーではなくて現実だけれど、神話となればファンタジーの世界にも繋がる。時間がその存在を曖昧にしていくことを改めて感じさせられ、歴史の力をまざまざと見せつけられるドラマだなぁとあらためて。
極めつけは、歌詞に「神と人間との間に生まれた絆」とあるように、最後に神の姿になった(加えてイケ散らかした)ラーマを見て、反転してこれはビームという森で育った一人の人間の物語(宝塚版での話)なのだと知った。

礼真琴によるビームという人間の物語。
神ではない、人なのだ。今回で、彼女が人を演じることに意義があると強く感じたのだった。
努力家でギャル(褒めている)で、超人的パフォーマンスを見せつけてくださる彼女が、(他)人の姿を演じながらも、その力で物語を進めていく姿にこそ勇気づけられる。この点こそ、今回の芝居とショーの一貫性と私は捉えた。

彼女は、託されている星なんだ。まさにアクタル。
登場場面は羊飼いとしてスーパースター然ではあるが、それ以降は基本グラパン@紅はこべのように姿を隠し凡人を演じている。朴訥とした青年像は、むしろ彼の等身大な姿なのかもしれない。しかしここで一つ、話す言葉も原作のイントネーションに近いという感想に触れて、もしやそこまで意識していたとしたら本当にビビる。そう思わせるというだけで、礼さんの力を感じざるを得ない。


全体的に原作への敬愛をすみずみまで感じられたという声を多く耳にした本作。紛れもなく映画ファンの方によるチケット獲得能力に感謝なのだが、そんな声を踏まえても非常に丁寧な作りだったのではないだろうか。そもそもルートビームってなんぞや?と思ったけれど、タイトルをみたらちゃんと×って書いてあった。やはりとても親切である。ロゴに二人の顔が入り、RRRとTAKARAZUKA、Rayとのかけ合わせ、なるほどプロの仕業か。

 

友情か使命か愛か。私としては宝塚版でコピーライトに愛が加わったのが良かったと思った。というのも、愛と友情の違いを考えさせられたからだ。家族になると愛で、家族じゃないとそれを友情と呼ぶのか。愛は友情よりも価値あるものなのか。なんだかちゃんちゃらおかしくなった。となったらゴーンド族の家族観の方がよっぽど「先進的」だろう。家族ってなんだろうか。などと世の中へ叫びたくなる気持ちも生まれた。

しかしながらひたすら、アクタルとジェニーの友情は眩しかった。トップコンビが表現する、紛うことなき「人と人」との固い絆だ。

 

ジェニーのように生きられなくても

ジェニーは清々しい。と同時に、ビームとラーマの話の中で圧倒的な存在感でヒロインとなり得たことは、宝塚だからこそ持たせられた力なのではないかと思うのだ。しかもトップコンビの間に友情という名の強い絆を生み出す。(では友情は愛ではないのかという議論は一旦捨て置く。差別化する意味はあるかもしれない)ちなみにラージャマウリ監督もジェニーという御役がお好きなのだそうで。何ならこれだけで宝塚版の意義が見えた、素晴らしいこと。それはつまり、恋愛感情だけがヒロインたらしめるわけではないということでもあり、今やっている平安の話とも繋がる。男のために生きているのではありません。

ジェニーが寝転んで見上げた空はあんなに広かったなんてはじめて知った(意訳)という台詞がとても好きだった。情景が目に浮かぶ美しい言葉だ。
私は私よ、と高らかに宣言するちょっと誇らしげな口ぶりも心に残る。

※実際、未就学児を連れて行き、何が印象的だったか尋ねたところ、この「私は私よ」の台詞と、(このあと触れたい)ジェイクの「君にはもっとふさわしい場所がある」だった。後者ってどういう意味?とのことで、偏見や差別を言葉で伝えることはとかく難しいと「大人」が試されると感じた。紛れもなく舞台芸術は、目にする機会になっている。ということで、正しいか分からないんだけど私は、を枕詞に会話をしてみている。
このようにN=1の感想なのだが、少なからず作品の中でもインパクトを残し、嫌味にならない真っ直ぐな言葉を発してくれるジェニーの力は強い。何なら彼女のように生きてみたい。でも、そんな風には中々生きられないこともわかっている。だからこそ、憧れる人物を溌剌としたひっとんが演じてくれて、とても勇気を貰ったのだ。今思えば、いわゆるオーラというものだったのかもしれないけれど。
私たちには向き合う覚悟が必要なのだ。

 

必要な説明の中で役割を果たす人物達

丁寧な作りだと思った所以としてもう一つ、割と説明台詞が差し込まれていることであった。そりゃあ3時間を半分にしていることもあるだろうけれど。
例えば、イギリス人にも色々いるんだな、の台詞はインド人にもね、と心のなかで呟きたくなるような顔つきでラーマが使命の話を始める。また、ビームが読み書きを教えてくれ!と最後にお願いするまでに、彼には読み書き出来ない描写が幾度か(ちゃんと)差し込まれている。森で育って無知だった、のダブルミーニングよ。
あとはラーマの処刑前に、ビームの歌によって武器がなくても革命がなし得ることを知ったとラーマ自身に告白させる下り。
私には、ラーマは一見すると分かりづらい人間だとも感じられるので(役者の力/持ち味もあるかもしれない)彼が本当にそう思ったのだという事実を手紙だけで終わらせなかったのは良かったと感じた。

 

それにしてもラーマは噂通り大義に燃え、愛する人への想いを胸に苦悩するかっこよさに満ちた人物像。2番手って美味しい役!を体現したような御役。またこれを素晴らしい体躯でのっけから客席を落としにくる暁千星。軍服姿で踊るとやや上半身の固さが気にはなるものの、シャツイチの姿は至高。自前の肩幅最高。ブエノスアイレスのギャルソン姿同様、アクスタが必要だ(ギャルソン好きすぎてまだ言う)。
でも一番好きなのは処刑前の姿。髪型もかっこいいのだけれど、何と言っても死を前にした表情だなぁ、とここまで書いてきて私はやはりありちゃんの無の佇まいが好きなんだなぁと改めて認識し、唐突に終わる。長くなるので。

 

それはそうとラーマのおじさん演ずるひろ香祐さんが素晴らしかった。おじさん!!!!と、ラーマじゃなくても言いたい。亡くなった父の代わりにずっと隣でラーマを見守り、共に歩む姿に涙せざるを得ない。もう一点。ビームの仲間たちのキャラ立ちがしっかりしていて流石の配役だとも。天飛熱いよ天飛(役だよ)。ラッチュが色んな意味でコケたらすべてが終わる、そんな役なのできしょーくんはもはや頼もしい。

 

対話することで生まれていた絆

意味ある改変のもう一つ。ジェイクだ。
原作は本当にナートゥ3位の男でしかないらしいので、ここにあてがかれた極美くんの引きの強さを感じた。だってあの礼真琴にダンスは踊れないとか人前で言っちゃうんだよ?!しかも見せつけて踊るし。私なら逃げたい(聞かれていない)

前述の台詞の通り、彼が持つ無意識的な差別発言はちゃんとジェニーにも客席にも向けられている。しかし、彼の基点はすべて大切な婚約者であるジェニーにある点は好感を覚えるしかなく、最後なんならジェニーのために敵視していた相手に協力までするに至る。
おそらく彼はその間、ジェニーとちゃんと向きあって会話したのだろうと想像できてしまう。
私は私よ、と熱い眼差しを持つ彼女の言葉の意味を彼なりに考えた上での最後の行動だとした時、ビームの言葉が彼にも確実に届いているのだ。この嫌味のなさはご本人の持ち味とも相まって、存在感が頼もしいなと感じる配役でもあった。


つまりジェニーとジェイクにより神々のファンタジー然とした話から人がどう生きていくかを考えさせられる機会になったのではないかと私は思っている。どうだろうか。 
ビームとラーマの間の友情か使命かの物語「ではない」と見た時に、立ち上がるわたしたちの罪深さ。いや、そもそもビームとラーマが対立してしまう状況こそ罪深さの原点(原典)ではあるのだけれど。
今の世でも諍いは絶えず、なんなら戦争は続いている。人が人を殺めてしまう。それだけ人は自分以外に冷淡になれるということを、物語や文学、あまたの作品を通して目にしているというのに、終わっていない。
神のもとに生まれ(たのかもしれない)(私は現状無宗教)、意のままにならない自然の中で、人との間に生きる。その繰り返しであるけれど、人間は差別をする生き物であるという愚かさと、それを認めながらもしかし、人との間に絆をつくることもできるという希望を胸に抱いて生きていけるか。
ずっと付き合っていくしかない、大きな課題を感じて、けれど物語は勧善懲悪、終わりを迎えた。

 

※4/9追記:初見時の感想メモ分
ビームの行動の源泉は、「大事な家族であるマッリを救う」という、とても身近な事象であり、一方ラーマは父の死の上に成り立つ「民衆に武器を与える(ことで政権を倒す)」という壮大な大義(使命)。
どちらが良い・悪いというのではなく、結果的にビームの魂の歌声が、民衆に武器のない革命を起こさせる”力”を持っていたという点がとても大事なメッセージだと感じ、同時に良いなと思った。
仕事をしていても現場の声一つが貴重だということがある。そんな私のちっぽけな役割においても、とても学びになる点だった。
大きなところから考えることと、小さなところを積み上げていくこと。その両方がつながったことで、大きな革命が成し遂げられたことを見せられていたのだなと。

 

しかし膝が取れそうなダンスを歌いながら成し遂げるタカラジェンヌ達には拍手喝采。大変お疲れ様でした。

f:id:nonbach:20240408163216j:image

最後に、真夏に今作への想いを馳せながら頂いたチャイのお店の写真を添えて。とても良いお店だったな、ご馳走様でした。