just arrived

あじわう

雑記:寄せては返す 思いを抱えて

先日の訃報に触れ、改めて哀悼の意を表します。

そして、特に側近く生きていらっしゃる方々の、深い悲しみをお察し申し上げます。

 

 

瀬戸際に立つ劇団と、そこに属する方々に対する(のかは分からないが)いちファンの心の内を残しておこうと思う。

 

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守りたいものは何か

前提として、どこまでいっても正解はない。

これは逃げではなく、簡単に解決できる問題ではないためである。(加えて世の中はあまりに複雑化している。話はそれるが、だからこそコンサル業のような仕事が大きなお金を稼ぐというironyもある中で、もっとシンプルに生きていけないものか。つくづく”価値”ってなんだろう。職業の貴賎はないと思いたい。が……(文中への布石))

 

でもあえて正解を示すのならば、この事自体が起きなかったら、というIfだけだと私は思う。そうして気づくと心が冷たい川底に沈んでいる。

ある芝居の中で、時計の針を戻せたとしても、に続く台詞がとても好きだった。けれど、今は涙が溢れてしまう。戻せたらなぁと思ってしまう。もちろん知りたいのではない。もう何をやっても憶測でしかなく、絶対に知りえないという現実も含めて、ただただ受け入れるのがつらい。しかし、ご本人を否定もしたくない。上手く言えないけど、安らかにお眠りください、そしてありがとうとお伝えしたい。

 

若い女性たちが努力を惜しまずわき目もふらず、一丸となって創り上げる舞台と空間が大好きで、私自身のアイデンティティにさえなっていた宝塚歌劇団

自画自賛ソングを歌えてしまう、唯一無二の世界に対して、確実に拠り所にしていた。そこに生きる人がいるからこそ、二次元ではなく三次元の広がりが私の中にも存在し、だから今も、身体の一部が抉られたような感覚でいる。血が流れている。
たかが”推し活”でそこまでするなって? それは本当にその通り。寄りかかり過ぎないことが大切だと、大きな学びであった。

 

忘れてはいない過去と転機の現在

この悲しき出来事に意味を見出すこと自体不遜だということを大前提に、けれどこれを機に、大きく動き出したことも事実なのだと昨今の状況から感じている。

そもそも私が記憶する限りでも、過去から色々あったが、端的に言うならば有耶無耶にしてきた姿勢が年末年始あたりから再度目についていたし、実際話題の組が観られなくなった状態にもなったし、当時の映像には蓋をしてしまった。

思い出されるのが10年以上前、シャンテの改装前のカフェで、とある友人とよく前述の色々を議論していた。その方は音楽を専攻していて、私よりも中の世界に精通していた人でもあった。その方が酷く憤慨していた姿が忘れられない。

私から見ても、当時から劇団には(自ら)解決させる気がないように見えたし、何より守る意志がないように感じられたのが、かなしかった。しかし疑問に思いながらも、月日は流れた。今振り返ると、時間が感情を葬り去っていった。

 

知らなかった。だから、動けなかった。

よくあることだ。現に、「知らなかったから」対策を講じていくと会見では述べられていた。大きい組織に複数所属した経験からも、そういった状況が生じる可能性について、頭では理解している。

でも、上記の通り、因果は分からないと念のため前置いて、過去に「何も」なくはなかったし、何か出来なかったのかと思うことは、劇団や組織にすべて原因があると思っていなくとも、多くの人が気になる観点だと思う。(わかりやすく、理解したいように受け取りたくなるが、冒頭記載の通り、すべての原因が集約されることなんて「あるわけない」と考える)

メディアの記事を読んでいないのでよく知らないし、読んだところでだから何も言えないと思っているが、一つ言えるのは彼らも仕事をしているということ。汚い仕事(と表現してみようか)かもしれないが、欲望を下世話なほどに想像しながら記事を生み出すのだろう。あまりに世の中の縮図だ。

どこにでもハイエナはいる。だから、対峙する必要があるのであれば、適切な対応を取れば良いだけの話ではないのか。そういう身の振り方ができるのか、できないのか。それがどのタイミングで行われるべきなのか、ちゃんと考えられている場所なのか。

少なくとも事が起きるまではいまいち分からないという不安がずっとくすぶっていたように思う。

 

それぞれの役目、ファンの行動

けれど私は、これからの動向について、少なくともファンが見守る「義理」はないと思っている。こちとら金払う客でしかないのだ。

ブギウギで、義理と人情の話が出たので、こんな言葉選びになった可能性は否めないけれど、「ファンが今できることは見守るだけ」という意見に、冷たいかもしれないが私は賛同できない。

別にそんなことさえ、しなくて良いと思う。

そりゃ気になるなら見守ればよい。けれど、心が離れることだって立派な選択だ。まぁ憶測含めて敵を見立てて攻撃する人が結構な数いるように見えることも察知しているので、暗に「それはやめようぜ」という苦言だとも理解しているが、そんなことをしない、まともな沈黙層も多いだろう。

私は黙っているのが耐えられず、うざったいほど毎日何かしら意識的にツイートを書き記した。何度も消しては書いて消しては書いてを繰り返し、絞り出せた呟き。そうでもしないと湧き上がる感情にのぼせそうだった。

 

今回、ずっと何かおかしいなと思ってきた違和感が最悪の形で露見されたように感じている。それを見過ごし/肯定し/加担してしまったのではないかという、どうしようもない罪の意識。その責任はどうやって果たせばよいのだろうかと、ずっと考えている。分からない。私自身もどこを進んでいくのだろう。選べる時が果たして来るだろうか。

今は、コンテンツとして消費する立場にいたことへの申し訳なさ、いや違う、そんなことは承知の上で舞台に立たれている皆さまであるとして、ひたすらに自分本位であるが、そんな関わり方をした自分が許せないし、情けない。

これからの世界において、変わるところと変わらないところがそれぞれどこなのだろうと気にはなるが、今改めて、ファンという立場でできうることは、そこに生きる人に心を寄せること・お金を落とすかどうか判断すること・劇団を見守ること・・・。とても限られているのだなと思い知らされた。当然株主であれば、物申す権利はあるけれど、もしかしたら、関係者であったとしても限定的なのだろうと想像すると、もしかしたら歯がゆい気持ちはもっと強いかもしれないと想像する。

ここまで書いたが、変えていく役割を担う方々を突き放すつもりはない。できる人ができることをして、とにかく生きていかないと。

過去を、今を、未来を、すべての時間を無駄にしないためにも、託したい気持ちは嘘ではない。

 

世界をより良くするために

少し脱線するが、今の状況に、私が尊敬してやまない、とあるご遺族を思い出している。
その方は、(きっと皆さんもご存知だと思うけれど、)事故でご家族をなくされてから、事故そのものをなくすため、そして同じような立場の方を救うため、ずっと「矢面に立つ」ことを選択している。どこにそんな原動力があるのだろう、と毎回活動に触れるたびにひれ伏す思いになるのだが、矢面に立つ「覚悟」に、ある意味宝塚のトップスターにも同じような強さを感じている。その強さは、まさに守るための”力”なのだとも思う。物理的な力ではなく、精神的な力こそが必要な局面である。

その中で、役割を担う人/組織として、劇団では現在理事長が矢面に立たれている。組織の中から顔(つき)が見えてきたことに、私は少し安心してもいる。けれど、冒頭に戻るが、守りたいものは何か。そして、守るための力があるのか。今まで本当によく分からない団体だった。

眩い光を放たれる方々が力を使って支えてきて、脈々と続いてきた110年。特にコロナ禍という苦しい状況を耐え抜く方々が放つ言葉の力一つとっても、美しく、しなやかだった。

その場所に責務があるとはいえ、甘えてきてしまった気がしてならない。ファンも、関係者も、それぞれの立場が。

これからはそうした一部だけでなく、広い「面」となれるよう、力を使いつつも(尽力ということ。日本語って美しい)、同時に蓄えていってほしいと願う。
なぜなら、これは紛れもなく終わりのない持久走であるから。おいそれと終わりにしないでほしいし、できないということを認識してほしい。

しかしながら繰り返しになるが、どうやって関わって生きていくのか、決めるのはあくまで自分でよいのだと、改めて言い聞かせたい。
ただ、以前から感じていた有耶無耶感が上書きされることを願う。人がそうであるように、組織もまた有機体であるのだから。

清く正しく美しく。朗らかに。

脈々と続いたその歴史は、一つの文化であり、組織文化でもある。人が作り上げ、つなぐことで、まるで大きな顔のように存在する。(ギャツビーでいう神の眼を、つい思い出してしまう)

目指し、生き続ける人がいる限り、有機的に変化していくことが、よりよい世界として生きていくには必要になるはず。

できることは限られている。でも、仮にここから長い時間をかけたら、結果、宝塚が宝塚でなくなるかもしれないという可能性も残しつつ、生まれ変わるかもしれない。

その時、私は何をしているだろう。とりあえず、生きていたい。

 

地続きな中でも力を蓄える

楽しい思い出は、別の箱にしまっておけばよい。そんな意見にも触れた。現に私自身もいろんな思い出や記憶も含めてごちゃまぜだったので考えさせられた。

愛してきた劇団生を応援したい気持ちと、ファンでいることで取り返しのつかない罪に加担しているような気持ちと、休む時間を(与えて)欲しいという気持ちと、過ぎ行く時間が惜しいという気持ち。相反するような気持ちたちが、同居している。

しかし、結局、すべてが地続きなんだよなと、私の場合は気持ちがくらくなっていく。

それでも生きてりゃ腹は減るとして、それならうまいもの食べるかと思いたい身としては、例のムーブは安易だなと思いながらもあえて乗っかった。そうでもしないと、辛かった。例えは悪いが、どんな時でもどんな場でも、食べ物と愛玩動物の話は人を傷つけずできると思っているので、ありがたかった。

仮に、お気楽だねとツッコまれたら、ほかにどうしたらいいのかと私は聞き返したい。皆さんどうやって力を蓄えている?

過去の宝塚の映像を見たっていいし、もちろん舞台に立つ人がいる限り観劇しに行っていい。今お休みされている方々に思いを馳せたっていい。そして、離れていってもいい。
決して自助などという冷たい響きではなく、自分本位で選択をしていく。ただ一つ、相手を害さない自由をもって。

色んな反応を見るにつけ、何のために私たちは舞台を見ているのかと今一度考えたい。
夢を見るためだけではなく、現実を生きていくためだと私は思う。それこそ、物語を物語としてだけ消費していたら、正直とても勿体ないということも、心に留めておけるといいな。

 

あたたかくしよう、約束だ

とまあ、ここまでうだうだと書くほどに宝塚歌劇という存在に寄りかかっていた私は、もはや阿呆だなと最近自分が情けなくも思うのだけれど、多かれ少なかれ愛していたものが揺らぐということは大きな衝撃にはなるものだと慰めている。

この思いは寄せては返す波のように、大きさを変えながら、私の心と頭の中で浮かんでは消えていくを繰り返すのだと思う。

きっと舞台を目にしたら、今の気持ちがまた上書きされていってしまうと思ったため、舞台に触れずに生活していた中での気持ちを記した。
未来はどんな変化が待っているだろうか。

 

今回の件に触れ、どんな理由であれ、心身ともに辛い思いをしている方々は、見えないだけで(見えていることも大いにあるけれど)色んな場所に、そして想像以上に、たくさんいらっしゃるのだということを最後に残しておきたい。

示し合わせたかのように、突然寒くなってきたこともあり、ここまで読んでくださった方には、一番に、身体をあたたかくしてくださいとお伝えしたい。
体が冷えると生き物はどうしたって死に近づく。命あればこそ。
どうか、どうかご自愛ください。

 

*1:

John Brett / The British Channel Seen from the Dorsetshire Cliffs

2023年某日 テート美術館展 -LIGHT- @国立新美術館にて