just arrived

あじわう

雑記 再びひとつとなれるのか

生きているとすぐ忘れてしまうから、その時々の思いを残しておこうと思う。

 

「宝塚はひとつ」という言葉はファンにはなじみ深い。

唯一無二というひとつ。たとえ離れていてもひとつ。組が分かれていてもひとつ。
劇団。生徒。ファン。世界。それぞれの目線、それぞれの立場。色んな意味がこめられて、紡がれてきた言葉であると信じていた。

 


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分断の連鎖の今

宝塚歌劇団が一番大切にするものは何か、公演は何のためにあるのか。

そんな問いが投げかけられたら、どう答えるのだろう。
正直理由なんてなくても良い。それでもいいから、これだ!と言い切れる人がいてほしいと私は思っている。
しかしながら、少なくとも今の劇団の経営層には答えを発することができる人はもしかしたらいないのかもしれないと、昨今の対応を見て思っている。

裏切られたような気持ちになるのは、期待をしているからだろう。勝手なことだ。でも勝手ながら思うところは減らない。むしろ増えている。
期待した人が損する構図は、生徒だって同様だろう。むしろ彼女たちにとってみれば夢でもあるが、イチ職場でもある。夢を仕事にしているとはそういうことだ。難しい。
しかし、夢と現実をごっちゃにしているのは果たして誰かということを改めて問いたい。

 

ハッキリ言って、今の状態は不健全だと思う。
一つの組だけ、刊行物を含めた仕事の場から消し去っていることに私は愕然とした。公演を続けられるところは続けたいというあらわれが、歌劇を久々に開いたことで、もはや形に残して堂々と行っているのかと気付かされ、胸に穴の開いたような感覚を味わった。

公演止まっているから書くことないもんね。

じゃねーーよ。

(突っ込みたい気持ちを最大限に示した結果)

失われてしまった命。その事実は絶対に変わらない。けれど、今もなお生きる人々がいる場所。
なのに、どうしてこんな状態なのか。しかもどうして今もあの時から時が止まっているかのように見えるのか。
「現役」生徒のみ(にせざるを得ないとするのか?)「組単位」の長きにわたる「謹慎」処分の状況が心配だし、つくづく解せない。

 

なんだよ、全然守ってくれないじゃんか。

※いや、言えないことはそりゃあるでしょうけども、むしろそんな言えないヤバいことが本当にヤバくて隠ぺいしてるんじゃなかろうかとか、そういう妄想をせざるを得ない状態を引き起こしていることが不健全でもあるのだと言いたい。米印なのに長い。

こうなると、そんな組織に所属する意味ある?となる人もいるだろう。むしろ、あの組はいいなぁという気持ちを生み出すだろう。
個人・組織それぞれの問題に加えて、もともと現役とOGという複雑な構造が存在するのに。
分断が起きないとでも思っているのか。せめて分断は外野、ファンの世界だけにしておいてほしい(皮肉)

 

加えて、巡り巡って自らをも否定することになる言葉を、今なお舞台に立つ権利を持つ眩しい彼女が、紡いだという事実は悲しい。
彼女だって守られるべきなのに、何を背負わせてくれているんだ。


全然、何も、誰も、守ってくれないのか。
半年が経ってしまうというのに。


”そういう状況にないからごめんね”リリース文をいつまで出すつもりか。どうやって状況打破していくつもりなのか、何も示されていない。時が解決してくれると本気で思っていそうで、本当に恐ろしい。
愚かな過去を背負って、続いていく険しい道を自分らで切り拓いてくれ。一方で、でもそれは事態を長引かせるのとは意味が全く以て違う。

そもそも人を苦しめてまで演るものじゃないという言葉を飲み下そうとしながら、今だって幕が上がる舞台を応援している。劇場に足を運ぶファンでさえ、みんながみんな悠長に観ているわけでもないだろう。

私だって、(一方的にフォローしているだけなのだが)おそらく相手からしたら私のスタンスは受け入れがたいだろうといった(元)ファンの方の言葉も目に触れるようにはして、自分のバランスをとろうとしている。
そうなると、彼女らの方が正しく見えて辛くなる時も正直ある。

しかし私は、舞台が止まることで生まれるだろう別の苦しみが辛いのだということを自分と異なる意見に触れて確信する。
コロナ禍を覚えているだろう、同じ轍を踏みたいのか。まあ何も考えてないのかもしれないんだけれどさ……。(また麻疹まで流行りだしている。ライブの難しさに幾度となく直面している気がする)
いくら分断をどのように乗り越えるのかについて、舞台から生徒が芝居を通して伝えてくれても、むなしい。

 

この状態は巡り巡って演者への冒涜ではないか。それとも自分自身への皮肉という高尚な遊びなのか。いや違う。のっぴきならない事情があるのかもしれない。でもこんなことになってなお、優先されることがあるのか? 信用ならない。

私には、劇団が意志も気概もプライドもない集合体に見えてきている。
※この時世だからこそプライドも何も言ってられないのかもしれないが、それでもアイデンティティに触れる部分でもある最近の一連の人事には、あまり熱狂できない。ここでは横道なので省くが、人の好みではなく、漂う優柔不断さが鼻につく(言っちゃった!)

 

発信される公式の言葉。ウェブサイトだけではなく、刊行物も含めて、解決していこうという気概が全然なさそうと感じた。
だからこそ、こんな外野にまで届いてしまっているのではないだろうか。
そして「110周年の記念公演の演目は予定通りには公演できませんでした」という、誰も喜ばない未来が現実になった。
半年経ってなお何も進まず進ませず、といった印象を残す対応に、こんな事態を引き起こした原因は何なのかとちゃんと考えているのだろうかと不安を感じるし、それにより外野までやるせない気持ちが伝播している気がする。


なんでも本気がないなら、時間は落とし所なんて見つけてはくれないし、分断は止まらないだろう。


ひとつじゃなければよかった

ここまで書いてきたが、ぼろぼろの船に乗るような形でそこでしか見られない舞台があることに心が苦しくなる。

私にとって、唯一無二じゃなければよかった。


とはいえ、私の心の損失はスケールが小さいとしても、文化資本としての損失としたらスケールは一定あると思う。
かけがえの無い宝物のような事柄も壊さないといけないことになるのなら、本当に歴史の目撃者になってしまうんだなぁと、今から実はこっそり身構えている。そうじゃないと心がいざという時に衝撃を受けて守れなさそうなため。
作るのは大変なのに壊すのは一瞬なのだけれどなぁ。

 

いや、そんなことになったらあまりに口惜しすぎないか。

(あえてこんな言い方をするが)おっさんたちの不誠実さ、本気の欠如によって、夢を見させてもらってきた「女性がエンパワメントされてきた世界」が、壊されていく様を目の当たりにして、なんというか、とても”日本”を感じている。

女の園が明るみに出ているという点は、もしかしたら前進した姿なのかもしれないが、そこまで単純な話ではないと私自身は思っているということを記しておきたい。


全然平等じゃないんだよ、もともと。
世の中、確かに変わってきているけれど、我々はまだオスカルに夢を見る状況なのだと思う。

複雑な様相を呈して、様々な日本の女の、人の生きざまを見て勇気づけられる世界はどこに。それこそ現実の生々しさを秘めつつ、美しく気高い世界が、本当の意味で潰されずに生き残ってほしいと心の底から思っているのだけれど、どうしたものか。

ああ、もう少し己の力をつけていたかった。
いや、命ある限り私は私の人生を歩むしかない。読んでくださったあなたも。
幸せな時間を勝ち取るために、考えたり、時に怒ったりしたい。しかし、夜明けはまだまだ遠そうだ。