just arrived

あじわう

おっさんたちのラブだけじゃないことに気付いて世界

最初に記すが、これは私の妄想であり感想である。

令和のリターンに寄せられた有象無象の期待すべてを形にすることはできなかったのかもしれない、ドラマおっさんずラブリターンズ。

まずそもそも、なんで今、リターンズ? こんななぞなぞを与えられたとするならば、私の答えとしては「盛大なスピンオフ」だったからに尽きると思っている。


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写真は豚バラみたらし団子。みんなもやってみぃ〜? 

ドラマ談義に花を咲かせながら友人宅で食べさせてもらって大変美味しかったのである。ハイカロリー。

 

おっさんずラブという存在の功罪

とにもかくにも。田中圭ありがとうなんだ、この物語は。
はるたんわんだほう!ドラマの役者陣、つまり「ファミリー」最高!の打ち上げであったのかもしれない。それが悪いとは私は思わない。だって本当に素敵な役者揃いだと感じているから。
実際このドラマで元々好きだった林遣都さんに加え、眞島さん金子さんと追いかけたい俳優さんが増えて大変なことになったほど。(あぁ時間が足りない!)

 

けれどその結果、傷つけてしまった人がいる事実が見えてきたことは、変わらなければいけない事柄なんだと私自身も学んだ。正直、現実はまだそのレベルだよねぇ……と苦虫を噛み潰したような顔をしながら、これから変わっていければより良い未来に近づけるはずだと信じている。こう書くと挑戦的かもしれないがあえて書く。

ドラマは当事者のものだけでもないのだから。

私の仮説としては、このドラマは同性愛をテーマ(の一つ)にしているものの、そこがやりたいことではないからこそ、結果的に傷つけることが生まれたのではないか。その観点で以後書き連ねてみる。

 

当事者は誰なのか

今回、同性愛以外の当事者の声がtwitterでもほとんど見られなかった気がしていて、私の中では結構大きな関心事なのだ。どう思われるだろうか。

 

ゲイの方を不快にさせるつもりはないのだけれど、当事者などの声が、「ちゃんと怒っていることを表明できる」という点で大きくなって良かったなと素直に思った。私もそういう声を発していけるように、真のアライになれるように、と学ばせてもらっているような気持ちでそれらの声に触れていた。
一方、このドラマを見て、嫁姑関係で苦しむ方は、介護をしている方や、シングルマザーの方は……。そもそもそんなエゴサしてないけども、色んな人生、このドラマでは「家族」の中でぶつかる壁の当事者たちの声はあがっていたかというと? 知らない、が多いのではないだろうか。そもそも忙しくて/興味なくて見てない群は、どの当事者においても存在することも忘れてはならない。

そもそもこのドラマはゲイドラマとしてフィーチャーされ、春田と牧の恋愛ドラマとしてカテゴライズされてるんだからといえるのかもしれないが、一連を見てきた結果、このドラマの目指しているところは、フィーチャーされたカテゴリとは違うところにあるんだろうと思った故の先の仮説である。

 

少女漫画からホームドラマ

今この時、当事者の声が少しでも聞こえるように≒大きくなったのはまさに努力の結果で、このドラマひとつで絶望することなんてないよと伝えたくはなった。余計なお世話か。
仮に添えるならば、これは間違ってるなと、おそらくこれからは気付いていくはずだよということ。そりゃあ放送する前に変えてほしかったけど、確実にこうやって変わっていることもあるのだから。

 

話は変わるが、今とある源氏物語関連本を読んでいて、要は平安時代からの超ロングラン大ヒット作、今読むと人権意識がまるで欠如していて、当時の感覚ってやばくね? を非常に分かりやすく指摘してくださっている。流石にこんな1000年単位でのロングスパンでの変容を待てとなっては耐えきれないし、今すぐにでも法律変えろよと思っているけれど、でもクリアにこういった倫理観の底上げがなされるかというと、結構厳しい世の中だとは思わないか? と感じているのが本音。現実は苦い。でも、それでもクリエイターたるもの、という批判はあまりに正しいし、そうあってほしい。

 

決して今はやりたいことができなくなった世の中なのではなく、今まで無視してきた事柄をちゃんと精査して、届けたいメッセージをクリアにしていくことが問われていることだと思うので、やっぱり「自然に」「配慮」できないなら、「どうにかして」頑張るべきだろう。

 

このドラマのテーマは前述の通りマイノリティの世界と思いきや、ハセくんの時から映画まで首尾一貫少女漫画をやりたかったのではないかと、友人との会話を通じて合点がいった。だからヒロインとライバルなのね、などという話。
(in the skyはちょっとここからは置いとく。見てたんだが・・・)

そしてこのリターンズでは、この日本の世間一般にあるお悩み事をはるたん達で体験したら? 的なドラマをやりたかったのだろうと推測する。結果的にリアリティーショーどまりとも言えるかもしれない。ただ、役者が役を生き抜いてしまうから余計にこんからがってる気もしている。(だからこそ、当事者である俳優じゃないとダメでは? という声には両手を上げて賛同はしない。多分私の口では俳優という職業を語れないので)

 

とはいえ、私も放送当時、ん?となったのが、このドラマでは普遍的なメッセージを伝えようとするために、あえて結婚、嫁姑、家族というワードを使っていること。つまり「同化」なんだろうが、目的が上記となると多分マイノリティの方々に期待させている部分とは、視点がずれているのだと思う。

 

でもここで言いたいのは、BLはファンタジーだからじゃないんだ。私はBL作品も拝読するが、男性が男性を好きなことって問題も何もないのだからこそ、ファンタジーという言葉を使いたくないのだ。(比較するのはアレだが、AVのシチュエーションがここで指したいファンタジーだろうと考えている)

はるたん達は、BLだからファンタジーなのではなくて、存在そのものが作者にとってさえもファンタジーなんだということ。もはやカービィ(じゃなくたって良いんだけれどあくまでイメージ)みたいに捉えたほうが、お互いの主張にズレがなくなって話しやすくなるんだと思わないだろうか。
いやあこの点、シルバニアファミリーは面白いぞ?(先日史上初の映画を観て感動したのだ)(ここではやめておくが)


しかし、そのためにどちらかを犠牲にするのも違うからこそ、もっと両方を活かす表現にしていくことに力を注いで欲しかったと令和である今は強く思う。多分気付けなかったんだろう。そういう意味で仕組みが必要だ。旅館で器物損壊レベルの喧嘩をして笑いを取ろうとすることに力を割くのではなく、ね。

 

現実をよくよく見つめているか

それにしてもシングルマザーの働き方を「ライトに」(≠軽い)(=明るい)描いてくれるドラマなんてないよなぁ。ちずちゃんありがとうだよ。
でも言わせてもらうが、自営の鉄平兄と会社員のマイマイが二人の子らを抱えて、加えてごろーちゃんの面倒もみていることにするのは無理あるだろ。おそらくご両親もヘルプしてくれてるんだよね? だって最後のパーティーにごろーちゃんいないじゃん? とか、ほら、なんだか雑なんだよね。台詞の一つ入れてくれたって良いじゃんか。

牧パパのエピソードだってそう。取り上げるテーマ一つひとつが重いので、ツッコミたくなってくる。でも「そんなこと」へのあまり意見は見られなかったと思っている。なんで?

 

恋愛面でも雑だなと思ってしまったのは、なんでもカップルエンド。
安易だなと思ってしまった私は割と毒されているのかもしれないが、正直、公安ずはお菊が報われないほうが良かったと思うのは少数派か。
だって新キャラへエネルギーが割かれたその分、武川さんとちずちゃんが割を食って、結果発言にそのボロが出るべくして出たんだろうなと思ってしまう。
ふたりとも好きな役柄なのにと、とてもさみしくなった。特に今回の武川さんの扱いはあんまりだよ。お茶吹かせる位は良いけど、なんでイタキャラにしたのさ。キャラを愛せなくなるのは辛い。大体マイノリティ恋愛バラエティーショーに偽名も使わずに出るって。なんかこう、設定さえ雑ではないか。

 

結局、同性婚ができない世の中は、一部の人だけが当たり前のこととして享受できない、変えようと闘っている現実なのだということ。そこがスコーーンと抜けて、他の課題と一緒にえいやで料理しようとしてくれたんだろうなと、想像している。
だからその気概自体を潰そうと全否定はしたくないのだ。色んなアプローチがあって然るべきなのだから。当事者のはるたんが現状を受け入れて仕方がないよね、とドラマの中で言わせることに対して失望の声は避けられなかったけれど、本来他の課題についても、ファンタジーだからねで済まされないと認識してほしいと思ったのが私のここでの持論。受け入れたり、闘ったり。色んなスタンスが本来許される時に、勝手に気持ちを推察して決めつけないようにしたいということも。

 

当事者じゃないからこそ、見えることも言えることもある。当事者だからこそ見えることも言えることも勿論ある。所詮、そんなことだらけで生きている。
本当に難しいけれど、お互い逃げなければ、そして突き放さなければ、いいなと思う。うまく切れないケーキを満足に食べるにはどうするか。話し合うだろう。

しかし忘れてはならないのは、SNSの声だけがすべての声ではないということ。また、自分が見えているだけの声もまたすべてではないということも。

 

それでも愛してしまうよ、君たちを

本来は、無理して家事するところ/仕事に喧嘩に全力投球なところ/大事なことを言えないところ。言及したいところはもっとあるけど、そんな牧くんが好きでたまらなくて、こんな牧くんを大きくあったかく包みこんでくれるはるたんがかわいくて愛でたい。そんなドラマだった。そこに三角関係なのか四角関係なのか、マロのような最高な莫逆の友なんかもいて。そんな微笑ましい二人と取り巻く人々をただただ見つめていたかったんだよね、少なくとも私は。今だって、このドラマの「目の付け所」はとてもよいなと思っている。現代版ぽっかぽかなのかな、とか思っている。

生きてりゃ色んな壁にぶちあたる。辛さもやりきれなさも、はるたん達が華麗に喧嘩しながら乗り越える。そんなハッピーファミリーストーリーだとした時、日本版Mr.インクレディブルでも目指していたのだろうか、なんて思いをはせている。はるたんがいれば、みんなハッピー!だもんね。

 

でも、それが苦しんでいる人を踏みにじるような表現をせずとも出来るよね、そこに時間と頭を使ってくれるともっと楽しい作品になれるよね、ということ。
皆で幸せを目指すということは、こんなにも難しいけど、でも一方で改めてエンタメの力を感じずにはいられない。ただでは終わらない、議論をさせてくれる。議論ばかりで終わっちゃよくないけども。伝説のようなドラマではないだろうか。

 

反面教師も契機になってほしい。時間は過ぎていくのだから、良くも悪くも変わっていく。どうせなら良いと思える方に変えていきたい。
ドラマも映画も、舞台も。そして私たちの生活も。