just arrived

あじわう

アナスタシア 過去への旅から未来への日々になるまで

失われた時を求めて”はプルーストの長編大作であるが、その表題の言葉を彷彿とさせる物語だなあとしみじみ感じたミュージカル「アナスタシア」。

失ってはじめて尊さに気づく愚かな私たち、人間。自分で滅したのに、求めてしまうことさえある。そして、そんな世界は至るところに溢れているのだった。

ハッピーエンドの余韻に滲む切なさが、いつまでも残る舞台だった。

 

www.anastasia-musical-japan.jp


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これはどうやって撮るのが正解なのだろうね

 

 

制作 滲み出る意気込み

コロナ禍を通じて苦境に立たされた無念の3年前から、2023年、この素晴らしい作品を世に届けるのだ! という気概が、SNS各所から薄々感じていた。

そのため、(急遽)観劇の予定を立て、いそいそチケットを手配した際に、併せてSNSをチェックしようと試みたところ、舞台をより楽しむことに成功した! まさに正しいSNS活用である。

発端は、TwitterもといXにて、演劇ファンの皆さんが(梅芸の)公式SNSの内容が素晴らしい! という声を上げてくださっていたことで、それまでチェックしていたわけではなかった私でさえ、これは素敵! と思った記憶がある。改めて内容を見るとこれが興味深いのだ。

個人的に、こちらのページだけでも簡潔に、しかしなるほど、と思わされる。

スペシャル[アナスタシアの魅力] | ミュージカル「アナスタシア」 <オフィシャルHP>

とりわけ、日本語訳詞である。
これについては具体含めて言及していくが、ちゃんと練られている訳詞を耳にするととても嬉しい。なぜ訳詞があるのか。その答えの一つに、観ている人の馴染み深い言葉を通じて、話を心の底から咀嚼することができると信じているのだ。(輸入物が増えている宝塚ももうちょい頑張ってほしい)(あ、つい本音が)

 

構成 単なるメロドラマとの決定的な違い

この作品は、グレブの存在により安直な夢物語※から大きく飛躍し、自己同一性にも跨る壮大なヒューマンドラマに仕上がっている。

※ディミトリ・アーニャ・ヴラドの三人ではローマの休日の二番煎じ感は否めないと思うのだがどうだろう

そこがアニメ版との決定的な違いでもあるのだから、改めてクリエイターの力を感じる。あっぱれ。

なんて言ったってグレブは、アーニャやディミトリに対峙する悪役であり、ディミトリの恋敵でもあり、アーニャの鏡そして同志(この絶妙な表現!)でもあるのだ。改めてすんごい重い役。全部乗せ!!!

そして、

home, love, family

この物語の主題。千差万別に形作られるこれらへの希求は、グレブとて同じこと。この世に生きる人へ、どこにいようと、あたたかな場所を探すという”生存本能”の正しさを教えてくれる話なのかもしれない。

 

また、ここでは余談だが、男女男の関係性において、男男の関係の強さが軸になるという説があるが、今回も例に漏れない。前述のローマの休日しかり雨に唄えばしかり。この点の面白さについては、勉強不足で申し訳ないが、論文がありそうなので探してみたい。


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日程とキャストスケジュールでにらめっこ。役替りは楽しい!

 

演出 楽しい仕掛けで舞台に彩りを

オペラグラスでキャストを追いかけていたが、ふと舞台全体を見渡すと様々な映像が流れていた。

その美しさと言ったら!

今の技術により美術さんのお仕事が変わっているんだろうななどと下世話なことも考えたが、あくまで主役の舞台を輝かせる存在として映像美がここまで進化しているとは大変驚いた。

 

そして、緞帳である。開演前、幕間、終演後で変化する仕掛けは、アナスタシア物語の幕切れとちゃんとリンクする。心温まる拘りだ。


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こちらは幕間。舞台はパリに移り、アナスタシアの文字はちゃんと“いる”

 

また、個人的に好きな場面を挙げると、白鳥の湖のシーンは観劇前からとても楽しみにしていた。なにせ本物のバレエだ。(宝塚が偽物と言いたいわけではない)(宝塚は宝塚というジャンルである)

中央のバレエ舞台を取り囲むようにキャスト達が配され、息づき、歌う。背景には輝く月。人と人との交差を表すに相応しい演出であった。

ちなみにバレエではなくオペラ観劇の構図になると、生田大和先生演出/明日海りおさん主演の『春の雪』で(私の中で)お馴染みだ。久々に観たいな。

※生田先生、ご結婚おめでとうございます!明日海さん、コンサートおめでとうございます! なんてHOTなお二人だこと。

 

配役あれこれ

グレブ 過去との対峙から生まれた憎しみと愛

既に散々書いたけれどもう少し記しておきたい。
過去への旅を通じて過去から脱却するアーニャに対して、彼女と向き合うことで過去の確執に対峙し、結果己の選択によりはじめて過去から脱却することになるグレブ。

彼で最も印象的なのは、歌詞の小さな変化の部分。
革命に感情はいらないと最初では歌っていたけれど、後半、革命に“愛”はいらないという訳に変化する点。ちなみに原文は以下。

The revolution is a simple thing.

これが「革命に愛はいらない」になるなんて。前述の日本語訳詞である。(これにこそ愛がてんこもり詰まっている!)

この、一言では言い表せないグレブの愛こそ、この物語の大きな柱であると、海宝先生のグレブにまざまざと見せ付けられたのだった。

 

殺すべき憎き存在、けれど心惹かれる人。安易な一目惚れの恋なんかとは違う、どこか確信めいたつながり。予感させるまなざし。

まさに因縁。

父の子であることにより導かれてしまった人生。これも親子という因縁。

父の人生を否定することが自己否定につながる”しがらみ”に苦しむグレブは、なんて痛々しいのだろう。その姿に、人は生まれながら、形は違えどこんなしがらみや苦しみに苛まれ、同時に苛んでいる可能性があるということに気付かさせられた場面でもある。

 

グレブとアーニャは、己の人生の主役は誰なのか、対峙し続け苦悩する二人であることから、鏡の関係性にある。(鏡の中の自分は、決して自分ではないという点も添えたい)

ここでまた光る訳詞、「同志」という言葉である。二人の関係性をこれほどまでに端的に表現できるとは。はぁ。同時に、同志への思いへ(意図的に/必然的に/結果的に)昇華させたグレブという人間の魅力のすべてが詰まっている。

海宝先生のグレブは力強さと生真面目さに溢れ、これまでの苦悩の歩みともいうべき“年輪”を感じさせる大きな存在感が、良い意味でディミトリとの対比を生み出していた。
その点、芹香斗亜さんのグレブは非常にノーブルな印象だった。アーニャに対する愛よりも同志という目線が色濃かったのかと今更ながらに気付く。彼女のグレブは、冒頭の演説場面が非常に求心力があったことを今でも覚えている。だからトップスター就任は非常に嬉しい。何度でも言おう、おめでとうございます!

バレエの場面で顕著に対比されていたグレブとディミトリ。グレブが、ディミトリのように、目の前にある道を己の足で踏みしめる生き方をしていないからこそ、アーニャを巡る3人の関係性は本当に面白いことになっていると感じるのだ。

 

ディミトリ 若さの勢いと平民の慎ましさ

海宝先生との対比になった、私的お初の内海くん。どんなディミトリだろうかとワクワクしながら拝見したが、まさにドンピシャ! 
というのも、物語としての理解度を高めてくれたので、文字通り存在自体が尊かった。

内海くんの見た目や佇まいから、とても”若さ”がフィーチャーされた印象で、初々しさや青臭さが強調されることにより、アーニャというヒロインとの“対等、フラット”な関係性をも表現されていた。

 

ここで余談だが、宝塚ではディミトリを歴を重ねた主演男役が演じたので、しょうもない悪知恵を働かせる、ある意味人間らしい魅力というより、ぼーっとつっ立ってても爪先までカッコイイ!(はあと)という隙のない魅力がどうにも勝り、身分違いの恋という障壁を感じづらかった。役者のアプローチも勿論あると思うがかっこよ過ぎるのも問題だな。
それでも、ディミよしくん(い、言っちゃった!すっかりファンだな)はいわゆるイケメン設定でも全く違和感がない。つまり、このバランスが結構大事なポイントなのかと改めて感じたのだった。

 

話を戻そう。彼が持つ若さは、ロミオとジュリエットのロミオとも違う。世間知らずの坊っちゃんではなく、限りなく等身大。悩み苦しみながらもどうにか生き抜いてきた一人の男が持つに相応なもの。喧嘩っぱやく、ちょっと短絡的。でも自分の気持ちに素直で、それでいて相手への優しさ(はたまた弱さ)が、物語の中での成長を通して現れる。

こ、こんなの好きにならないわけないだろ〜!!!(少し落ち着こうか)

 

アーニャへの思いが、アーニャの夢を阻むと自覚する時、貴族と平民という構図があまりに鮮明に浮かび上がる。これも物語の大事な柱であると再認識できたのは確実にディミよしのお陰。

彼がマリア皇太后に切々と語る場面、その若さゆえ、ズケズケと人の心にまで踏み込める勢いも相俟って、ずっと側で寄り添ってきたアーニャへの思いが恥ずかしい位に漏れていて、正直キスシーンよりも何よりもラブシーンで、大好き。ま、そりゃあタンクトップ姿も大好(黙ろうか)

 

マリア皇太后 成長だけが人生ではない

土足で人の心に入り込む無礼なディミトリに、絶妙な平手打ちをお見舞いする麻実れいさんのマリア。

今回、このお役で拝見できて良かったと思った一番の理由が、成長や前進といった物事の一面性に囚われていたことに気付かされた点である。

 

一度は冷たくあしらうけれど、改めてアナスタシアと会話する中でのマリアの言葉の重さにぐぬぬと思わず声が出た(勿論心の中で)。

固くなった心を解いていく流れの中で、老い・死という人生の行き先を見つめることの厳しさや、すべて(家族)を失っても生きなければならない運命を、その顔つきから物語るような佇まいに、私はなぜだか説教されているように感じられたのだった。

どんな時も前向きになれたら万々歳だけど、そんな気持ちだけでいつまでも走ることは出来ないのだと突きつけられる。時が忘れさせてくれることもあるけれど、時が経てばその分死に向かう。時はいつも平等に、私たちに迫りくる。

そのことを十二分に知り尽くしているマリアは、酸いも甘いも、清濁併せ呑むことで得られる、究極の人生の豊かさを知っているようだった。そんな彼女から、美しく、楽しくも勿論良いけれど、それ以上に“豊かに”年を取りたいと思った。

 

アーニャ 自分に向き合い続けるタフネスと眩い美しさ

マリアと心を通わせ、ついに抱き締めてもらえたアナスタシアの姿に私ももれなく大号泣した。

1幕は衣装替えもほとんど無かった(よね?)と思えないほど、終始神々しかった晴香アーニャ。大本命で観に行ったけれど、期待を決して裏切らないその気高さ。

メイクも決して派手じゃないのに(リップも限りなく色味を抑えていたのに)彼女にしか目が行かない! なぜ? 凄い! 

ただのプリンセスとはひと味もふた味も違う、地に足をつけて生きて来ざるを得なかったタフさ、生き様が歌声に現れていて、心地良かった。

 

と、ここでも少し逸れるが、宝塚でも星風まどかさんの底力を見せつけられたと思っていたけれど、今回改めて観てみて、宝塚の娘役の「枠」というものがあるとするなら、タカラジェンヌ自身が狭めないような仕組みや工夫はちゃんと用意した方が良いと思った。それでも、まどかアーニャは唯一無二で、私にとって彼女のお役の中で一等好きなのである。幸せになってもらいたい、そう心から願いたくなる魅力にあふれていた。とてもヒロインだった。有限を生きる存在としての儚さもあるのかもしれない。それは、きっと娘役だからこその表現。そう思うと、娘役には、まだまだ可能性に満ちあふれているのだと私は信じる。

 

ヴラドとリリー 欠かせない大御所のユーモア要素と進行役

ヴラドは石川禅さん。何よりとってもチャーミング。アドリブと思しき台詞も超キュート! 本当に達者な方だなぁとにこにこしながら観た。

と同時に、宝塚で演じた桜木みなとさんってすんごいのな……とその力量を改めて再確認したのも事実である。(2023年努力賞おめでとうございます!!!)

同様にリリーに関しても同じことを思った。嗚呼ずんそらって偉大で奇跡だったんだな(いきなりコンビ名で呼ぶねえ)

といってもマルシア節全開のリリーも、台詞の間合いがうまく、笑いをしっかり確実に獲得していた。流石である。ロシアの過去の栄光云々よりも何よりも、逞しく、でも惚れた男にはとことん弱い、なんとも可愛らしい印象だった。(その点、和希リリーはさばけているけど退廃的で、割り切って生きている複雑な大人の薫りの魅力が強かった記憶)

 

 

終わりに 人間の愚かさと向き合う覚悟はあるか

それにしても、革命に感情はいらないとグレブくんは言うけれど、残念ながら革命は人が生み出すものなのだよ、と言いたい。

また、リトルアナスタシアが言葉を発するだけで泣いてしまうの。それはアナスタシアのその後の人生を思っただけでなく、私が人の親である故であるが(最近とみに涙もろい)、彼女にとっての幼い弟までもが殺されてしまったことに、史実なのかと思いを馳せると、もうそれだけで胸が苦しい。

なんてことしてるんだ、人間は。時代が国が人種が性別が年齢が、なんだ。何なんだよう!

革命、諍い。権利を勝ち取る上で、そんな目的如何によっては、必要なこともあるかもしれない。人間は愚かなので、気づかなかったり忘れたりするから。

けれども、出来る限り繰り返さないよう足掻くことを忘れてはいけない。そのために、歴史、過去を振り返り、未来へ生きているのだからと、そんなことをふと思ったのだった。

 

大千秋楽までどうか舞台が守られますように。

(休演が心配。コムちゃんリリーの軽快なダンス、また観られますよう。そして、わかなちゃんのご快復をお祈りする。晴香ちゃんはじめカンパニーにエールを……!)