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あじわう

覗いた先に潜む闇と光 万華鏡百景色感想

遅ればせながら、千秋楽おめでとうございました。

 

こんな時に、と思う気持ちはなくはない。それと同時に、宝塚を観ること楽しむこと自体が踏み絵みたいになってきたなぁと、言葉を選ばずに書くのなら、そう思っている。

 

私は、時に月が欠けながらも光り輝き続けていたことに、敬意を評したい。なので、そんな思いで書いていると予め宣言してみる。

 

夜な夜な観劇の記憶を辿るように書き進めていたのだけれど、だいぶ寒くなってきた。秋になり、冬になっていく。月組の舞台の幕が下りるのと同じくして、私は風邪をひいた。体調管理はむずかしい。皆さまいかがお過ごしだろうか。

(しかし、こんな辺鄙な場所でも時折立ち寄ってくださるのかと驚いていたのである。だから、私自身、書きたいことを書いておくことを楽しもうと思う)

 

さて、前置きが長いが、ショーの話をしたい。

 

kageki.hankyu.co.jp

 

見た初感、観た初感

まず、世界観のあるタイトルだと感じた。
万華鏡というのは、今まであったようでなかったモチーフだと感動したのだ。

改めてみれば、万華鏡って宝塚の世界になんてぴったりなんだろうか。箱の中でだけで繰り広げられる儚さと美しさ。

そして、残された郷愁。

偶然にも縁日で「一つだけ選ぶ」という制約の元、数多ある対象の中から選ばれた玩具の万華鏡が今、家の片隅に眠っていた。

公演が始まるとなって、ここぞとばかりに手に取った。安っぽいプラスチックの音がカラカラと鳴る。なんてことはない仕組みなのに、覗き込むと思わず口が開く。(のは私だけではないと信じているのだけれど)そして、笑みが溢れる。

こんな不思議な世界が始まると言うのか。

とまぁ、始まる前からワクワクしていたことは想像に難くないのである。

 

いざ迎えた観劇日。

蓋を開けてみれば、The日本文化な風物詩である花火にもなぞらえつつ、絵巻物のように繰り広げられる。そして、歴史的な時間軸をもって展開していく構成。極めつけは演者に絶景かなと言わしめる、魂込められた言葉の数々。

 

鮮やかな日本(東京)が詰め込まれた刹那の時間、こんなの発想が天才すぎやしませんか。栗田先生のプロの視点に改めて感じ入るわけである。

しかしながら、このショーをみて何となしに浮かんだのは、「愚者は経験に、賢者は歴史に学ぶ」という言葉だった。(はっ、ビスマルクってドイツの宰相・・・)

つまり、歴史的な展開軸であることこそが一番のメッセージなのかもしれないと、少なくとも私は感じたということを最初に述べておこう。

 

*********

というわけで、気になったところだけを記していく。総じて読みにくいであろうが、御免。

 

闇と光の力関係

闇がなければ光には気付きにくい。このショーを経て、改めて思ったものだ。

むしろあんなに眩い舞台を見ていて、「舞台って暗い空間も表現できるのだなあ」と思わされたともいうべきか。加えて、ショーの前半と後半で闇と光のバランスが変わったように見えたのだった。

 

前半は闇とともに対峙する強い光の存在。

女郎の悲しみ、謎の伯爵(ロティ)の憐み(後述)、良秀の狂気※。

良秀が娘を焼いた炎は輝きを増して、まるで閾値を超えたかのように爆発し、中詰を迎える。

地獄変の最後、炎から暗転までの影の描写は、まるで映画のようだった。とても鮮烈な印象を残していたし、演じきる鳳月さんも的確なんだろう。

 

一転、後半は、光は闇に潜むが如く。もはや同化しているのかもしれない。(しかし、すれ違う常)

平成の初期はネオンサイン。けれど令和になるにつれ、どんどん色が失われていく。顕著なのは、渋谷の闇に輝く一点の光となる、海乃さん。

 

時代とともに、闇と光、そして色彩の在り方が変わっていった。

これはきっと良い悪いではなくて、示唆として意図的に作られ、メッセージングされているような気がしてならない。

 

※話は変わるが、渋谷の場面の余韻は、パッサージュの硝子の空の記憶にしか思えないのだけれど誰か共感してくれる人いないだろうか。
令和なのに、どこか懐かしいあの空気。そして、傘も万華鏡も円を描いているのが、憎いねえ。輪廻。

 

物語を見せられて

とはいえ、最初からワクワクさせていた己の心にピタッとハマったショーだったかと言うとそうではなかったのも事実。

正直初見では、あまりに知っている曲達が続いたことで、歌謡ショーなのか? 宝塚のショーって一体……? という気持ちになってしまったのであった。後半は特に音楽が駆け抜けていってしまって、今私が観ているものって何なんだ? と置いてけぼりになっていた。

しかしながら、回数を重ねることが出来たことで、観方が分かってきた感覚が生まれた。

 

そうか、これは、物語なのか。

 

いやいや前評判だってあるし、設定だって明示されてるじゃんと言われたらそれまでなのだけれど、

それこそBADDYのように、登場人物に通し名がなかったんだもの、というのが私のささやかな言い分である。

ある方が、バレエを観るようだと表現されているのを目にして、途端に解釈が進んだような、腑に落ちたような気持ちになった。

 

物語、つまり芝居なのだと思って改めて観ると、逆に中詰のFantasyでノリノリ宝塚的に楽しめるというあらまぁなんという不思議体験。

 

要は、私がショーを音楽先行で受け取りがちなのだということに気付かされたわけであって、デビュー作として創り上げられた栗田先生としては、そもそも宝塚のショーって? という疑義をファンに抱かせること自体が、ある種の成功なのだろうなぁとしみじみ思っている。

 

しかしながら、鹿鳴館の場面だけは正直、ここだけちょっと浮いていた印象を抱いた。

まあ、芥川を以て地獄変につなげていきたいという意味合いもあると思うし、月城さんの(謎の)金髪軍服姿はありがたいので文句は言わない。
言わない……いや、でもやっぱり音楽がここだけ異様にクラシカルで、あまりに西洋で、ちょっとゾワゾワした。

端的に言って、好きじゃなかった。負の感情が乗せられていたから。
あんなに上品な海乃さんがあえて歯を出して笑っているようにも見え、あれは絶対演出であり、総じて日本自体を皮肉ってるのか、どことなく性格の悪さを感じたのが気になってオペラグラスを上げられなかった。

 

ということで、ピエールロティを調べた。
無知だったので、お菊さんの話はなんとなくぼんやり知っている程度で、上記の通りふーーんと観てしまったのだけれど、日本への蔑視という点、まさにドンピシャだった。

ピエール・ロティ - Wikipedia


さて、ではなぜ「宝塚で」この場面が作られたのか。
花火師という設定からして、花火という作品のテーマには実は一番近い場面でもあるはずだが、日本賛歌には決して「ならない」。むしろ「外から見た時の異様さ」。

おっと・・・・? もしかして挑戦状なのか? そうかもしれない。

こんな風に、あえて見せた意図を考えるだけで何日も過ごせそうなので、ブルーレイ見ながら酒を飲もう。(知りたいわけじゃないからね)

 

見つめた先に「見える」もの

作品への向き合い方がわかってくると、見え方がだいぶ変わった。こんな体験自体初めてだったこともあり、改めて面白い作品だ。
ということで、見え方、次は視覚的要素の話をしてみる。

我々が万華鏡という名のオペラグラスを覗き込んでその世界を見つめているとき、演者もまたこちらを覗き込んでいると感じられたのが、このショーの複合的な視点における「構成」の醍醐味なのではないだろうか。


そのことを端的に表現したのが、前述の(私と貴女(演者)の)「絶景かな」であり、加えて、宝塚のオリジナル作品の面白さにも通ずる芝居とショーに共通する構図である。

 

ベルリンと東京を「見下ろす」演者たち。

ベルリンの街に灯る明かりと、鹿鳴館で見つめる花火。どちらも見つめる先には、闇を照らす光があった。(東ドイツではまだガス灯が残るとのこと。あら点灯夫さん!)


しかし、芝居では背中を向けて明かりを見つめる二人が、ショーではこちらを向いて花火を見つめていた。気になる。

そして、元来花火は見上げるもの。
となると、これは観客からみた演者そのもので、(1階席の客だけだよね、とか無粋なことは言わないで)まさに、敬愛する心を示していると思いたい。

万華鏡を覗き込むように、期待に胸を膨らませながら舞台を見ていたいものだ。

これからもずっと、ずっと。

 

また、連綿と続く「衣装の意匠」の引き継ぎが、このショーの”歴史絵巻的構成”に華を添えるように効果的に働いていたと感じた。

実に鮮やかだった。

 

今回のショーのキーカラーはショッキングピンクであろう。

中詰も然ることながら、花魁の着物、鹿鳴館のドレス、闇市のドンと娼婦達。

どこもかしこも同色が使われていたけれど、しかしこれもショーの前半まで。

平成令和となると、とたんに色彩が変わっていった。というか失われていった。(前述の通りである)

渋谷の鴉はあくまで象徴で、現代の色の無さ(※ダブルミーニング)は圧倒的だ。

 

しかし、フィナーレは、本当に空気ごと変化が生まれた瞬間だったと感じた。
大階段にライトがあたった瞬間。あれを劇場で体感できたこと、今もなお代えがたい経験だったのだと今更ながらに噛み締めている。


劇場全体が実に眩しかった。

鳳月さんの脚の長さが信じられない事実でもあった目抜き通り、それまでの灰色から一転、飛び込む紅の色。
やっと巡り会えた二人のデュエットダンスは2羽の鶴のようなめでたさ集大成ともいうべきか。金に紅白黒という、なんとも日本的色彩で締めくくられていたように思う。

 

ついでに、パレードにおいても拘りは続いていたようで、デュエットダンスと同じような娘役の髪飾りは水引モチーフ(と私は勝手にとらえている)だったのが新鮮だったし、海乃さんは花魁を彷彿とさせる簪を身につけ、これまた繰り返される(円/縁ともいうべきか)輪廻のようなものであるのだろうかと、最後の最後まで気が抜けなかった。

 

主演の力の強さ

さあて、ここからベタベタにファンしようかなと思う。


最初に言わせてほしい。今回も月城さんの滑舌の良さに感動。
開演アナウンスから最後の最後まで、明瞭。


そして、本ショーにおける私的No.1月城さんは、例に漏れず闇市である。(ドーン)(ギャグ……)

風間さんとの深いようであっさり切り捨てそうな関係性も痛快だし、あの一瞬の場面で伝わる人間性が面白いし、
なんていうか、うますぎるのだよ。人間を演じるのが。

ひょうきんなご本人からは想像もしえないお役を、どしっと迎え撃ってくださる感じがたまらなく面白い。
生きてる背景が見えてくる、人の芯が立っているとでも言うべきか。
あの洞察力は何なんだ。

嗚呼、男役で、宝塚の世界で、見たい役がいっぱいあるのだ。欲望は果てしないものでね。言うだけタダだから言わしておくれ。

 

そして、強さというのはただ単に上手いってだけではなくて(いやそれだけでもすんげえのだけれど)、終始デカい声の存在もある。

え、そこ? とお思いかもしれないが、本当に色んな代役をもってして皆で乗り越えて、それでもぶれずに真ん中に立たれていた、月城さん。
あまりにも強かった。想像しただけで涙が出るほど、ありがたい。
ファンだからこそこんな気持ちだけれど、でも組子だってきっとそうなんだと思う。妄想だよ。


守れる人は強いのだ。いうなれば、強さがないと守れないということを、こんな風に体現してくださるなんて。

しかし、その鍛え抜かれた強さも、月組のみんなのおかげだと御本人がまず考えられているわけで、周りを見て、こちらがそう思える(信じられる)ところまでがワンセットなんだよな。

 

大きな愛と感謝と、ひとえに尊敬の気持ちである。

 


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余談:博多と東京の距離はいかほどか

ここから先はさらに輪をかけて馬鹿なこと言い出すよ。覚悟はいいか。

 

お気づきの通り、10月は博多座に行きたくて行きたくて仕方なかったけれど断念せざるを得なかった身であったので、
点灯夫のピカピカが僕のアーミンに見えてくるし、
冒頭記した見上げて・見下ろしての関係には、ふとサンドイッチのハムみてぇな感想も持ってしまうし、心は忙しなかった期間だった。

(でもさ、今はそんな忙しなさこそ幸せなんだよねえ・・・)

博多座が無事幕を降ろすことになって、良かったねぇとほっこりしていたところに、さあ!聞いてよ!(書くよ)
博多に行きたくて博多明太子おにぎりが大好きな風間さんのアピールがぶっこまれた身にもなってほしい。

ああ、ぜひこちら拾ってほしかったです中井先生。でも拾えないよねとも理解。

ここは難しい球でも打ちこなす風間さんのブレなさを愛したいと思った所存である!(いきなりどうした)

 

何いってんのか分からんが、終わる。

 

タカスペがなくなったって、つながっているんだって信じている。

信じられることだけ信じる。今までもこれからも、それだけだ。

 

信じるに値する、それだけのものを見せてもらってきたと、私は信じている。これもまた輪廻。

 

しかし問題はある。そこは視線を反らさず生きていきたいし、やはり変わらなくてはならない局面だとずっと思っている。

だってせっかく生きているのだから。