just arrived

あじわう

雑記 私とあなたを知るには

あけましておめでとうございます

という言葉さえもはばかられるほど信じられない現実が次々と迫るお正月、いかがお過ごしですか。
穏やかとは言い難いこの状況、渦中の方々に少しでも安らぎの時間が訪れることを祈る。
勇んで献血したいのに極度の貧血な身が口惜しい。ただ微々たる金額で寄付はした。無事届けられますよう。


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静寂期間の過ごし方

時を少し巻き戻そう。11月の月組公演の千秋楽後、東京宝塚劇場に静寂が訪れた。
その期間は偶然にも仕事が非常に忙しく、もはや生活に必死で、私は宝塚のことをじっくり考えることはできなかった。けれど、何かニュースが出るたびに心がざわめき、ニュースがなくともふと苦しい気持ちに苛まれた。要は忙しいものの、断続的に思考せざるを得なかった。

このことこそがストレスなのだなと感じている。

改めて、感情の波に時に飲まれながらも必死に生きて、よく頑張っているのだな。私も、あなたも。


直近1か月だけでもたくさんの報道があった。
それらが真実か否かはさておき、罪を犯している可能性がある劇団を受け入れないことは、”正しい”のだとは思う。

しかし、罪が憎いこととそこに生きる人々を愛さずにはいられない愚かさは共存してしまう。全くもってイチファンの私は、宝塚と心中するつもりはないけれど、それでも誰かに宝塚が突き放されると勝手に傷つく。

そんな弱弱な私がもう少し元気に生きていくには、やはり生の舞台が大事なのだ。どうにか、舞台を止めないでいられないものかと思っている。

勿論すべてが整ってから動き出さなければ意味がないという気持ちも分かるし、何もすべての幕を開けろと言いたいのでもない。ただ、ここ数年のコロナ禍での教訓も活かして欲しいと思っている。すべての舞台人の希望を取り上げることは、見たくない。

しかし、私にできることなんて限られているので、そんな時、未来を色々と妄想してみることも大事かもしれん、と半ば開き直ってみたのが以下のメモである。

 

 

無血開城の鍵

ツイッターに突如「勝海舟が気になる」と書いた。

その心は、去る12月にはドラマ大奥season2の放映があり、そこで登場した勝海舟に関する番組が別途放映されたことが、ことの発端である。
そこで彼について調べてみると、意外と主人公として描かれていないのだと驚いた。かくいう私も維新回天竜馬伝(懐かしすぎる!)の北翔さんのイメージが強く、ここでも主役ではなかった。
※主人公にならない仮説として、一つ長生きしたことと想像する。しかし、晩年ご意見番として明治政府を痛烈に批判するなど、非常に味わい深い人生で面白いと思うのだ。癖つよ人物だからか、名脇役の味わいだからか、少なくとも宝塚では……難しそうだ


話を戻すと、彼は、西郷隆盛と相対し、江戸城無血開城を実現した人物である。
長生きした彼の人生において、一本筋として揺るがなかった芯が、「幕臣」としてのアイデンティティ、つまるところ役割意識だったようだ。
詳細は省くが、この彼の佇まいが多くの人々を助けたのかと知って私は感嘆した。無論そもそも幕府に取り立てられてきたため当然の行いではあるかもしれないが、彼の場合はのちの明治政府にも組み入れられ(最後は離反するが)改めてその力量に驚くと同時に人生において一貫した意識を貫くその精神には人としての頑固さ、ある意味諦めの悪さを感じる。

交渉の極意

江戸城無血開城というのは、交渉の結果を指す。

彼は、幕府側としてただ単に戦争をしたくない一心でこの場に向かったわけではなさそう、ということが非常に興味深い。というのも、彼はハッキリと交渉後の世界を見据えてその場に臨んでいたようだ。
どんな世界を実現すれば、より多くの人命を、日本を救えるかという視点は、今まで結果の事実だけを捉えていた後世の人間としては、はっとさせられた。

仮に新しい体制になった際、慶喜が死罪となれば、幕臣側の不満反感は免れず、新体制との分断はますます深まる。また、幕臣とその家族がその後生活をしていく道筋をどうにか残す必要もあった。
それならばいっそ更地にした方が楽であるにも関わらず、そこまでの情熱をどうして抱くことができたのか。

やはりそこには前述の役割意識が根強かったのではないかと思うのだ。
(特に、諦めが悪いと自称される武士のようなタカラジェンヌさんを応援している身としてもしっくり来た感覚だと申し添えてみる)

加えて、そもそも幕府側から吹っ掛けたような戦に対して、戦をやめるべく双方の要望の折り合いを国レベルで実行するという、壮大かつ難儀な交渉をどのように実現させたのか。

調べると西郷さんと勝は割と昔からの知り合いで、むしろ昔は勝の方が偉ぶっていたらしい(ドラマ大奥でも同様の描写があったな)。この、旧知の仲だったことが効いてきたのだろうという点について、番組内でも述べられていた以下がとても勉強になった。

・交渉事は、相手を知っている方がやりやすいと思われる
・ここぞという交渉にはこちらの譲れないラインを設定して臨む


これを語る経営者の話は別途じっくり聞いてみたいとサラリーパーソンの私は唸らされっぱなしだったのだが、1点目は相手を知らないと”落としどころ”が見えないという点で難しいのだという。どんなものが好きなのか、どのような思考をするのか。分かったほうが話が早いということ。2点目は、要は己を知るということだと私なりに解釈した。


つまり、江戸城無血開城は上記が実装されたことで初めて実現した、代えがたい結果なのだということに改めて気づかされた。

相手を知り、己を見つめ、自分が果たすべき役割を全うした結果、新しい未来が戦なくして実現した紛れもない現実、歴史が存在したのだ。


宝塚歌劇にとっての勝

はてさて今の宝塚歌劇において、幕臣たち、つまり現役のタカラジェンヌや関係者の方々の生きる道を残すために尽力できる勝海舟がいるのか、非常に気になったわけである。
※ここで念のため補足するが、明治政府が新しい宝塚のあるべき姿だと言っているわけではない。江戸の終わりの結果の一つが明治政府だったわけで、それに対する評価ではない(それは専門家がとっくに行っているだろう)。あくまで、明治を経て今の令和があるという経緯を知っているだけである。


何が起きているのか、原因は何なのか。とにかく様々な報の中でも、論点がごちゃまぜで語られていることが多く、気持ち悪い。なので深追いはやめた。まとめたり整理したりしている方々の根性(言い方)は凄いなと思う。


原則は当事者同士で向き合ってくれればそれでいい。というか、それ以外はただの外野でしかない。
しかし、相手のことを知って(理解して)いるのか。相手と対峙しているのか。そして、自分のことを考え尽くしているのか。

色んな報道が今後出てくるだろうけれど、深追いはせずともこれらの点で良い意味で驚かされることを願っている。
今はまだ、可能なことを目先の範囲で行っているのではないだろうかと、ここまでの”やり取り”として非常に気にしている。けれど、私は外野だ。ここでうるさく書くだけで、敵を作って仮にも攻撃したり馬鹿にしたりなんかしない。多少なりとも呆れはすることもあるが。



交渉には胆力が必要だろう。
現に対応している方々だって相当大変なはずだ。その努力が無意味だ、愚かだと言いたいわけでは断じてない。


祈りたいのは、幕臣たちだけが身を切ることにはならないでほしいということ。こればかりはここで書く分には許してほしい。

彼女らは外の世界を知らないかもしれないが、何も思考を止めて生きてきた人間ばかりではないと信じているし、信じられるから。


ただ、もう永遠に”無血”にはなりえないことがどうしようもなく辛い。今後も問い続けたい。しかし、110年の歴史を目の当たりにしている身としては切に願っているのだ。例えば、文明開化が訪れるその時を。

 

最後に、勝の言葉を残す。
神逸気旺(しんいつきおう)

神頼みすることなく、努力と気力で道を切り拓く

 

 

閑話休題:真実と事実、だから何?

事実は小説よりも奇なりとはよく言ったものだ。

ありふれた格言に立ち返る面白さ、そして人間の繰り返される愚かさったらない。


一連の報道や発表を受けて、とある方の「真実なんてない」という言葉を目にした。その意味を、恥ずかしながら分かったようで分かっていなかったのだが、ぼんやりと振り返っていた年末年始、はたと理解が進んだ気がしたので記しておく。


突然だが、私の古い友人に、書くことを仕事(の一つ)にしている方がいる。Aさんである。
Aさんは昔から非常に聡明な人だった。だから、今現在も仕事の成果がかなりの評価を受けており、忙しくされている。全く持って納得である。
Aさんは作家として活躍しつつエッセイなども執筆するので、時折過去に交わった私含めた友人との過去にも触れられることがある。
書かれること自体は良いのだが、結果、Aさんの執筆内容と私(たち)の過去が食い違っていることが、真実と事実の違いであり、まさに真理なのだろうと悟ったという話。

フィクションだろうとノンフィクションだろうと、意外と折り合いをつけるのは難しい。

 

Aさんは自身の経験を踏まえて育まれた価値観や見識を多くの読者に伝える。それ自体は、本当に素晴らしいのだけれど、その”踏み台となった”経験を近くで同様に体感していた身からすると、嘘も脚色も織り交ぜているように読めること、加えて掲載許可を取るような内容でもないというAさんの判断のもと、事実かフィクションかハッキリと明示されずに書かれていること。これらから、正直これで金儲けしてるのか、という気持ちを友人と共有したのが最近のハイライト。

何が気になるのかというと、経験の中で語られているテーマには友情、愛情といった類があるのだが、これらは自分だけではなく、相手の存在があってこそであると思うものの、その視点が全く持って彼女の執筆内容から抜けている点である。
とはいえ私は執筆内容の当事者ではなかった。しかし当事者に非常に近く、なんならその出来事を目撃し体感する距離にはいた。そのため一方的に語られた嘘の過去のうまみでAさんだけが美味しいご飯を食べているのかと思うと、つくづく文字って信用できないなと気づかされたわけである。

と同時に、相手がいて初めて成り立つ話が、相手不在で進んでいく恐ろしさに、実は身近で体感済みだったのである。

自分の経験を伝えることにさえ、意外と大きな責任が伴うのだ。

こうしてみると、たとえ当事者が語ったことでも、嘘かもしれないのだ。ここで言う嘘というのは、意図的でも、そうでないものも含まれる。また、私や友人が記憶していることが間違っているかもしれない。もう何年も昔の話だ。どうやったって真実なんてわからない。これだけはハッキリしている、わからないのだ。


ここで大事なのは、真実そして事実がどうだったのかではなく、そこからどうやって会話していけるかだったのだ。