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あじわう

翼を授かり目指す場所とは 〜フリューゲル感想

ナディア。それはウクライナ語で希望という意味だそう。

 

kageki.hankyu.co.jp

 

 

想像の翼を羽ばたかせて

いわゆる宝塚のオリジナル作品に込められた幾重にも連なる思いの数々を拾い上げるには、芝居の1時間半じゃ正直足りないと思った。

でも、宝塚(に限らずだけれども)にはリピーターも一定数存在することを考えると、細かなことは良いのだ、感じろ! 的な、これが宝塚だ!! という圧も勿論大事で、その反対に、あちこちに張られた伏線に観る度毎に気付く深みというものは、色んな楽しみ方が与えられるという点でも間違いなく舞台の豊かさなんだと思う。(しかしながらこのどちらにも当てはまる作品も確かに存在するという面白さもたまらない)

 

今回の作品『フリューゲル』は、後者だった。

私の読解力不足もあるだろうけれど、正直、ヨナスもヨナス母も、"出来過ぎた"人で、何と言うか、予想以上に夢物語的存在だったことが没頭の妨げとなった。加えてナディアの強引さは、いくらスーパースターだから(という理由にもならない要素だけれど)とはいえ人のテリトリーにズカズカ入り込む様子が、私の感覚としては許しがたかった。


しかし、初見ではいまいちピンとこずに終わった観劇から、再び舞台を拝見する機会を得て、少しずつ解像度が上がった実感を得た。
つまるところ今作品では、”完全にフィクションとするために”、あの手この手が仕込まれているのかもしれない。

 

作品のあらすじやポスターが発表になっていく中で、本当にこのテーマを扱って大丈夫なのか? と感じた人は私だけではないのではなかろうか。ど真ん中とはいえ、サウンド・オブ・ミュージックという、もはや古典作品とは違うアプローチが容易に想像できた。

けれど、蓋を開けてみると、今作品では「宝塚として」「エンターテイメントとして」成立させるための、まさに”演出”が施されていたし、その最たる例が極端ともいえるキャラクタ・人物像なのだと理解できた。

逆に、そこまでして、今の世の中に「何か」を伝えられるテーマであるのだと、あえて選ばれたのだろう。そう私は受け取ったし、気持ちがようやく追いついてきたというのが今現在の感想である。

 

揺るがない強さとやわらかい場所

主人公であるヨナスという人に一番感じたのは、芯の強さだった。それでも頭でっかちに見えなかったのは、月城さんの持ち味ゆえだと思った。

彼の信念は、話の進行と比例するかのように確固たるものに変化していく。最終的に彼の「視座」が高まっていくその様子は、まさにトップとして存在していくことになる月城かなとさんに確実にリンクしていた。

しかし、もはや崇高とまで言えるほどの存在感(前述でいう夢物語的存在)もありつつ、同時に対極にあるような、ある意味親しみやすさ、そして飾らなさといった実直でユーモラスな性質や、信頼される上司としてのヨナスは、まさに月組を率いるイチタカラジェンヌとしての月城かなとさんの姿に見えた。

この「見える」という点において、つくづく人間味を染み出されるのがお上手だなぁと感じる。それこそが、役者としての上手さなのだろうと、勝手に一人でうんうん唸ってしまう。
ヨナスのひょうきんな部分は何度観ても面白いし、頑固な部分はなんでそこまでと半ば呆れる。でもそんな彼の譲れない部分は、たとえ相容れなくても理解したくなる、そんな人間的魅力が詰まっていたように思う。

 

唐突だが、ポスターを今一度眺めてみる。f:id:nonbach:20231108000940j:image

すると、どうだろう。
ヨナスの瞳のメッセージ性に驚くではないか。今まで宝塚のポスターで主演がこんな惑う眼をしていただろうか。(反語)

なんでこんな表情なのだろうと、正直舞台が始まるまであまり気にしていなかったのだけれど、舞台を見終わった後に見つめるとこれがまぁ母性くすぐられる姿に見えないだろうか。

 

ということで(?)、彼の確固たる信念の裏側に、翼に囲われていたようなやわらかい場所として、母親の存在が描かれていた。

そもそも母息子の話なんてうるうるしちゃうに決まっているからズルい。※my mother bore meじゃんね、エリック……(脳内でファントム妄想始めたよこの人)(止めて)

しかし、生い立ちに関わる一連の流れはあまりにフィクション然としていて、ちょっと白けたというのが正直なところ。第一なんでナディアやルイス達が見守ってる中で再会するんだろうか。連れてくるのはまぁ良いけど、流石に席外してくれないか。

そしてここでも軽薄娘ナディア(悪口じゃん)(勿論海乃さんは悪くない悪しからず)が、やっぱり親子ね、とか言い出してムカッとしちゃう私は心が狭いだろうか。

人助けする性格が親譲りだって? 血筋が物を言うのはもうやめてほしい(それこそMe and My girlは血筋で膨らむ話だけれど、そこが本質じゃなくなることがメッセージだと思っている)

なんというか、僕の心のやわらかいとこを今でもまだ締め付けるという感覚が近いか(突然の夜空ノムコウ)、結論、親子の描写にも進化がほしい。比較して悪いけどブギウギとの差が激しいなぁと、(悪気はないだろう)ナディアを書いた先生との解釈違いを起こしているイチ観客であったという報告である。

とはいえ、ヨナスに義を重んじる武士のような側面をそれとなく? わかりやすく! 詰め込んでくださった先生の愛は勝手に受け取った。
月城さんでThe武士を観たかった。しかし応天の門で日本物のカードは切ってしまった訳だし、(限られた作品の中で)こうするしかなかったのだろうという妄想。

しかしいきなり個人的な話をすると、祖父がいわゆる国に従事する人間だったので、ヨナスのような精神で仕事をしていたかもしれないと思ったら(実際に昭和の象徴かもしれないが私の中で絶対に超えられない壁となる存在なのだが)、めちゃくちゃかっこいいなと遠い空を眺めるなどした。こうやってまた僕のやらかいところに触れてくる人物があて書かれたという点で、ずるいんだよなあ全く。

 

希望の翼を皆に授けて 私は私の空を飛ぶ

ぼろくそ書いてごめんね、ナディア。

冒頭の通り、彼女は「希望」。ヨナスだけでなく多くの人々に翼を授ける(それを勇気と呼ぶのだろう)。

機転が利いて、人の背中をどんと押す(そして人の心に土足で踏み込む)(と私は感じるが)、正真正銘のスーパースター。

しかし、話を追っていくと、彼女自身もヨナスから翼を授けられ(!)、夢を見出し、大きな行動を起こしていく人だった。たとえスーパースターだったとしても、だ。


お転婆娘ときくと、『今夜、ロマンス劇場で』の美雪姫を彷彿とさせ、実際に夜の東ベルリンの散策はお披露目公演さながらのランデブーだった。海乃さんの静かな美貌にあえて破天荒なキャラクタを宛て書いてくださったことには大感謝である。

もはやヒロイン総なめな彼女に、宝塚の娘役然としたヒロインではなく、自立し、男役と対等に言葉を交わせる役どころこそが面白いと私も思っている。欲を言えば立ち回りを入れてほしかったけども……※

ついでに言うと、ナディアが東ベルリンにやってきてから着せられた衣装を見るたびに、STUDIO54の青樹泉さんを思い出すこと、誰か共感してほしい。

そもそも全体的に東の学生たち含めお衣装のヒッピー感(とあえて言う)にSTUDIO54を思い出せずにはいられないのだった。あの時の方が歌のインパクトは強かったけれど。(『人ごみの中の孤独』が好きすぎるだけかもしれないのは認める。あれは名曲だった)

むしろブレイクスルーならぬブレイクザボーダーだったカンパニー再びなのか。しかしバックダンサーズ(正式名称で呼んだれ)はちゃんとドイツ国旗の3色なんだな、とか、ナディアのジャージがくらげ柄なんだな、とか、ばんかきょう連呼してくださるのね、とか、目が足りなくて確認できていない車のナンバーも含めておそらく、本当に隅々まで拘りが散りばめられている様子に、宝塚的な愛をビシバシ感じずにはいられない。

ついでに、まことしやかに囁かれていたシティーハンター感については、漏れなく感じていた。良いシナリオをパクっ……オマージュしてより良い作品に仕立てることも、立派な演出だと思う。

※歌手に立ち回りはいくらなんでも無理あるんだけども、だがしかし……。

 

敵味方と言い切れない 世の中の縮図

分断の暗い影を引き受けるヘルム―トには、胸をえぐられるような気持ちにさせられた。改めて、毎公演作り上げられている鳳月さんの役者魂と脚の長さには慄く。

けれど鳳月さんの力を持ってしても、作品の中での存在感があまり大きくなかったと感じたのは、そもそも人物の背景がほぼ描かれていないからかもしれない。ヨナスとヘルムは冒頭から関係性を見せはするものの、すれ違う二人の構図が劇中現れるでもなし、本当にすれ違った結果だけが見せられるので、究極の「ママ」カードを持つヨナスの人生の動きに注目してしまうことになり、そして終わる。終わってしまう演出は、やはり心にグサッと刺さる。

しかしながら、あえて彼の背景には触れなかったのかもしれないとも思う。なぜなら政治的であり、そこをメッセージとして伝えたいわけではないのだろうと推察するからだ。

ただ、人が道を違う時とはこういう瞬間の積み重ねをいうのだと、その事自体が見せつけられていたと感じた。

彼の生き様には、改めて信じることの強さ、怖さ、そして恐ろしさを痛感すると同時に、そうやってしか生きていけない人は確かにいるし、生まれるのだろうと思った時、頭に過ったのは『ブエノスアイレスの風』のリカルドだった。

 

対して、何者? 切れ者! ルイスさんには向かうところ敵なし(と言いたい)の風間さんが演じられたことで、なんかよく分からないけど「凄そう」なオーラが、登場した瞬間から「凄かった」。凄いすごいの重文承知の大渋滞。ついでに歌が上手すぎる。
ベルリンの壁の前であんな美声が轟いたらびっくりするぜ。しかしあんな陽気で人たらしなキャラクタ、アメリカンを狙っているのか知らないけれど、結局ピースサインの意味するところも分からず、公演を観たとしてもこればかりは謎が深まる。おーい。

結論、お話としても存在としても“困った時の風間さん”が発動したのだろうと曖昧にまとめてみるが、ルイスの存在だって、ひとえに味方という話ではないと思うのだ。

そこはまたしても物語の本流じゃないとして割愛されている(と捉えた)が、歴史が教えてくれることでもあると割り切った産物なのかもしれない。

危ない橋を渡るなぁと思いつつ、このテーマを選んだ理由として、「分断をどのように断ち切るのか」だと私は考えている。おそらくそこには、ルイスのような”第三者”も確かに必要なのだろうとも。

しかし、ルイスと白河りりさん演じるリンが仲良くしているだけで私のニヤニヤが止まらなかった。お話の中で打ち解けていく感じが堪らない。しかし彼、婚約者がいらっしゃるのでしょう? とてつもない人たらしだ!

 

隅々までいきわたる愛の世界

齋藤先生の作品には、モブがいない。

最初に断ると、これは強すぎるワードであり、他の先生の作品にだってモブなどいないわボケ、と一喝されることを重々承知なのだが、登場する一人ひとりの存在感が濃ゆいということを伝えたかった。

情報量が多く、本当に取りこぼしちゃいけないところをちゃんと受け取れているのか、そこで良いのか、と毎度のことながら混乱しながら楽しんでいく作品だなぁと味わい始めている。

今回はともすればヒヤッとするテーマがハートフルに描かれているが、そこに息づく人々を通して、希求する平和に少しでも近づいていくにはどうしたら良いのかと考える機会にもなった。今の世の中、わかりやすく見える壁だけではなく、むしろ目に見えない壁が沢山あることに、まずは気付きたいものだ。
そして、誰かが誰かの翼を授けていること。反対に翼を奪ってしまうことさえ起こりうる。
あ、あれ、ジャガービート・・・?!(なんということ! 齋藤先生ってば)

 

台詞の応酬から、ヨナスはとてもロマンチストな人だと思ったけれど、しかしながら月城さんにはリアリストな印象をもつ不思議もあり、世の中が動いていくにはその両輪が必要なのだろうとも思った。

宝塚という存在にも、ロマンと算盤、夢を描くための夢と現実とでも言おうか。その両方に向き合い続けてほしい。そんなことも思ったし、ずっとずっと心のどこかで不安でいっぱいなのである。

 

話は逸れたが最後に、この作品でご卒業される蓮さんが、まさに胆力の感じられる人間を演じられていて、とても嬉しい。今までありがとうございましたの気持ちでいっぱい。寂しくなります。

 

せっかくなので、ショーの話も書けたら書きたい。

 

 

余談 最近の心のあり様

舞台を観ると、やはり想像してしまった通り、楽しかった。

チケットがあるなら、劇場に赴きたいと思った。私という人間にとってみれば、そこに生きる人がいるのだから当然なのだ。それなのに、どんどん新しい舞台の演目が発表されるだけされていって、置いてけぼりになっている自分がいることも嘘ではない。

 

直近で言うと雪組の演目発表に、私は諸手を挙げて喜べていない。あんまりじゃないか。雪組は、直近で待たれる作品の初日が延期になっているというのに。
しかも演目が演目だ。心がさみしいと悲鳴をあげているよ。ファンの方はどうやって受け止められているのだろう。

 

だからこそ、舞台の幕が上がることが、嬉しい。

嬉しいけれど、そこに”本当に”演ずる側への配慮や検討が挟まれているのかが引っかかる。
何が一体どうなっているのか、事細かに知ることはなくてもいいから、守られるべきものが守られていくと、信じられるような世界を、求む。