just arrived

あじわう

2023年の1789に寄せて〈1〉歴史の渦の中に

1789-バスティーユの恋人たち-という作品に対して、正直ここまで思いが高ぶるとは思わなかった。この予想外の感情の起伏は後々文字にしておくと面白いだろうなぁと思い、前編として、2023年の再演期間におけるあれこれに対する気持ちの変遷を辿ろうかなと思う。(てなわけで後編も書いている。以下参照)

2023年の1789に寄せて〈2〉作品と役柄と関係性と - just arrived

 

kageki.hankyu.co.jp

 

スターに対する個人的思い入れ

まず1789が再演されると聞いたとき、真っ先に思ったのは「あ、このタイミングでやるんだ」という衝撃と若干の困惑だった。

というのも、てっきり暁千星さん(ありちゃん)が真ん中に立たれるそのときに再演を果たすのではと妄想していたから。

それだけ、8年前のありちゃんのご活躍は衝撃的だったし、ご本人は目にすることができないと豪語されるフェルゼンと、楽しかったとお話されるロナンというお役のどちらもが印象的だった。パレードだって真ん中降りするし。

(この時だったか、もう少し後だったか。小池先生が、君は現役生の中で最も良い声をしていると仰ったとか何とか。まだ望海さんとか勿論礼さんとかも現役生よ? すっげーー。※ただの噂で嘘かもしれないと補足しておく。それほどの情報の精度ガバさよ週刊誌もびっくりね!皮肉)

とにかくそれほどまでに「1789」という作品自体が彼女に「期待が寄せられている証」であったと思っていた。その後舞台で拝見する度に、1作品ごとに声がでかくなる(印象を与える)ありちゃんに、それに値するものを感じたし、拝見するたびに好きになることを止められなかった。


また、礼真琴さんが申し子のごとくフレンチミュージカルに数々と出演されていること、私としては「もっと他の作品はやらないのか」に尽きる。

(礼さんのお役を全ては拝見できていない若輩だが、「こんな礼真琴さま観たことない」てなりたい! ミュージカルがことごとくフレンチ続きで寂しいなあという気持ち)

私が言うまでもなく、礼さんって本当に上手い。すべてが。歌もダンスもなんだけれど、芝居というか、呼吸そのものが。

力量がもう桁違いな気がしていて、タカラジェンヌでいてくださって本当にありがとうございます。いうなれば軟体動物のような巧みさというか、周りにあわせて爆発するかどうかを見定めている。プロというより酷くシビアな方だなと思っている。

だからこそ、このジャンルの箱だけでいいの?と、とても懐疑的だった。


今の星組で演るべき作品

……とまぁ、色々ごちゃごちゃ言ってるけれど、全ては制作発表の時に解決したのだ。(おい)

だって、礼さんご自身が好きな作品なんだ(意訳)とお話されたから。(疑うわけではなく真偽は知らないが)これにより、すんなりと受け入れることが出来た。

礼さんが好きで演じたいなら、それはもうどうぞどうぞ! タカラジェンヌ、そしてトップスターという限られた時間の中で、可能ならばやりたいお役をやってほしい。なので、現星組で再演することに対する違和感は水に流した。(お前がどう思おうがやるんだよというツッコミは置いておく。気持ちの問題なのだ)


そこから幕が上がるまでは、再演の醍醐味である配役妄想が楽しかったなあ。といっても星組の解像度があまりに低かったため、極美慎さんのフェルゼンピッタリだけども……ん? 位の感度。今思うと酷いけれど、人って興味を持つと世界が変わるのねとも実感する。

メインの話題は「娘役トップスターがオランプなのかマリーなのか」。
が、私としてはどちらに転がっても面白いだろうなぁと思っていた。だって(ことにルスダンを経た彼女だからこそ)舞空瞳さん、ひっとんならどちらでも素敵だろうし、月組の時もとても楽しかったので!!

結果として、有沙瞳さん、くらっちがマリーということで、嗚呼彼女の集大成になるのかと感動しつつ寂しくもあり。でも、ポスターに堂々入っての退団はとても嬉しかった。(伯爵令嬢で度肝を抜かれたことを今でも鮮明に覚えている。星組に異動されてとてもメイクが綺麗になった印象で、彼女の舞台は観ている限りずっと心に残って好きだった。お疲れ様でした)

加えて瀬央さんがご異動に。いつだってそうなのだが、改めて時代の移ろい、節目を感じた。ここまでは、ただ単純にまだ観ぬ舞台にワクワクしていたなあ。


休演、再開。そして代役公演への布石

宝塚での幕が無事上がったと知り安堵したのも束の間、翌日からの休演。ここから不穏な空気が流れ始めた気がしている。

株主総会での代役公演への言及。スター制度を配す宝塚でどのように実現する算段を企てているのか、気になる動きが出てきた。


しかしながら、遠征は暫くお預けな私としては宝塚千秋楽の配信が観られず、東京も観られるかどうかという状況。まあ到底無理だと思うので、楽の配信だけは押さえたいなというライトなスタンス。(猛烈なチケット難。全方位に向かって本当にお疲れ様でした)

が、奇跡が起きて、1回限りの観劇が叶ったわけだった。


観られなくても前評判はTwitterもといXなどの情報を通じて何となくイメージは膨らませていた。「ヅカ版と東宝版のいいとこどり」「上手くまとめた感じ」「完成系では」などなど。評判上々。

そりゃそうだよね、礼さんだし、、、!(加えて、邪な私は、龍さん苦手という人からしてもそうなるよね)と思っていた。 

龍真咲さん。型であり、型破りでもあり。まあ色々言われるのも理解なのだけれど、ほんとおもしろい方で、大好き。


思い起こせば、私も観るまでは気楽なものだった。初演時に色んな思いを抱えていたことをすっかり忘れていたので。なにせ8年前である。人並みに人生を送っていると簡単に忘れるものなのだなあ。

でも、この唯一の観劇をきっかけに、抱えていたものが水のようにじわじわとしみ出してきたのだった。結論、生の舞台に勝るものはないということ。

 

居心地の悪さの正体

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これは観劇前に頂いた牡蠣フライ(脈等なさすぎだろう)

 

主題歌を口ずさみ、興奮冷めやらぬまま帰路に着く。宝塚を観た後はどんなときも大抵こんな状態になるのが常だった。
しかし、意外や意外、今回はそうではなく悶々とし始めた。

そもそもこれは何の話だったのだろう?


フランス革命に命を落とした名もなき平民の物語。バスティーユの恋人たちという副題。確かに、様々な恋人たちの愛は存分に味わったものの、なんでロナンは革命に身を投じたのか、終始分からず終わってしまった。

ロナンって、一度はオランプに外国に行こうとか言っちゃうし。でも、そこに友人たち=兄弟がいるから革命に生きたわけだが、そこの繋がりがイマイチぴんと来なかった。


月組版で、トップコンビが貴族と平民に分かれたことで、自然と浮かび上がった構造に助けられながら観ていたのかと、恥ずかしながら今更気付いた瞬間だった。

身分違いの愛が貴族にも平民にも立ちはだかる。身分とは何? 愛とはなんだ? 

バスティーユというのは象徴で、フランス革命を生きざるをえなかった恋人たちを見つめていた初演。デュエットダンスで対峙する相手との関係性から、まさに最後の最後から物語られる創り。


今回、トップコンビで恋人を演じたことで、すんなりいくはずの私の頭は予想に反して混乱を極めた。

誤解を恐れずに言うと、全体的にそつなくこなしてる印象を受けてしまったのだ。
もしかして、この作品にメッセージ自体そもそもないのかも……? なんて。まさか。

あんなに革命して人権宣言を作って、演出だって盛り上がりがあり(小池先生の1幕ラストは毎回ドキドキ)、汎用性ある台詞もところどころにあって。なのに、初演から何を観ていたのだろうと混乱した(2回目)

※大好きだった四重唱がカットされ凹んだのもあるかもなあ。天飛フェルゼンと有沙マリーに歌ってほしかった。脳内ではお二人も許されぬ愛を歌っているけれど。良いお芝居だった……(じんわり)


初演の時は月組も絶賛番手ぼかしで、色んなスターさんがあちこちにひしめき合っていて、何したいんだこの組? という感じだったが(おいおい)、でもその粒だったスターさん達の存在が、革命下の有象無象を表しているようで、前述の構造も相俟って、めちゃくちゃわかりやすかったみたい。

その点、星組が、あの星組が! おとなしいという印象を受けてしまった。それは、受け取るものは何なのかが定まらなかったと同義な気がしている。

つまるところ、残念ながら「星組版は完成形」という言葉は、私には全然ピンとこなかったわけだった。

東宝版も観ていたのだが……まだ咀嚼中だけれど、東宝版では、無意識に「男は革命、女は生活」といったジェンダー役割的なものを前提に観ていたのかもしれんなと。自分の根深きバイアスに気付かされているような気もしている。男性が革命に身を投じることへの違和感って、歴史の出来事でもあり生じにくいというか。そういう意味で同性が演じ分けることの意義を感じる(宝塚賛歌)

 

ヤツはお盆にやってきた 再休演と運命の代役公演

宝塚の近年稀に見る事態だったと思う。いや、稀にも見ないかもしれない。

代役公演は宝塚の時にも総会でのやりとりを受けてまことしやかに囁かれていたもの。まさか現実になるとは。

日本初演となった真咲さんロナンと礼さんロナンを知るありちゃんが、今の学年で、立場で、(紛れもなく)礼さんと、星組の皆さんで創り上げることになったロナン。

組替えしてまだ一年ほど。瀬央さんの最後の星組生としての公演。このタイミングで、この作品で、彼女がこのような巡り合わせとなることを、運命と言わずして何になるか。


感想を読んでしかいないが、代役という立場上意識的な役作りの差を意識されたのかもしれないと感じた。(感想から感じるっていうツッコミは受けよう)

加えて、ありちゃんロナンと並ぶぴーちゃんデムーラン。このお二人が身分を越えた兄弟となると全然違うんだろうなぁと、それだけで胸が熱くなった。また、初演から出ているありちゃんに加え、輝月ゆうまさん(まゆぽん)の存在は大きかったのだろうなあと。

結果、初演を知る2人が新人公演と同じ役で生きるという公演に、少なからず初演の空気を感じた人がいたこと。

感想に出会い、思いを巡らせる中で、ああそうか、これだったのかもしれないと、パズルのピースを唐突に差し出された感覚になったことを今回記しておきたかったのだった。

何言ってるんだという書き方をしているが、私が最初しっくりこなかった星組の1789は、むしろ代役公演でようやく理解が追いつい(てしまっ)たのという話である。というわけで各々の役柄については別記事で書く。


スターという星に思いを寄せて 

とにもかくにも、この波乱を乗り越え、千秋楽を無事迎えられ、本当に何より。ご卒業の御三方も誠におめでとうございました。

しかしながら、終わりよければ全てよし! とならないこともあるのではと実感した公演でもあったと思う。

外野のやいやいに対してわざわざ貴重な時間を使って説教しなくちゃいけない状況。代役公演にトップスターの全方位への配慮で触れられ、労いがあり。なので、はいオッケーじゃないでしょということ。良くも悪くもトップスターへの寄りかかり、すごくないか。そりゃ発言影響は大きいとは思うけれども、だからこそ、変わらないといけないのではと思うのだ。(解決できていないであろう問題、あるよね? ね……)

現状は、企業広報然とした静観のスタンスという印象だけれど、未来も宝塚を観ていきたい身として、違和感は声に出していこうと思う。


礼さんが休むことを選択してくださって、星組の皆さんが舞台を続けることを選んで下さって、はじめて気付けたことが沢山ある。
これこそが歴史なんだなと。”革命”という布石を何重の意味を為した1789という作品。
やはり1789をこの星組で演る意義があったのだと言わざるを得ない衝撃。忘れられない。

タカラジェンヌが命懸けで舞台を守ってくださったこと、その星星の煌めきが絶やされることなく、できうる限り地上から見上げ続けていきたいと改めて思う。同時に着けられる足はちゃんと地に着けること。浮足立っていてはいけない。星を眺めてばかりではいけないとも。
週刊誌に足元を掬われないような盤石な体制への刷新を祈りつつ、本日は誠に(読んでくださり)ありがとうございました。