just arrived

あじわう

グレートギャツビーとの出会いと別れ

ギャツビーはいかに、どのように、なぜ、グレートなのか。

死を持って永遠に。

そんなことを考えさせてくれた月城ギャツビー。

他にストーリーが考えられないと思わせる話にブエノスアイレスの風に引き続き出会えたのは、原作の実力と月組の引力の両方があるのではと感じた。

 

kageki.hankyu.co.jp

 

幸いなるかな、愛の夢に酔いしれて

彼は、出会ってからというもの、夢であり目標であり目的でもありつづけたデイズィに、いつもいつも向かっていた。多くの人が目的とし夢である(そして真の金持ちと永遠に相いれないという断絶の証拠となる)金は、彼にとってはただの手段であった。彼女により全てを正当化し(、させられ)ていた。薬には手を出さないという矜持は、おそらく元来の有り様に加え、父と愛する人への想いもあるのだろう。決して器用ではない、けれどひたすらに真っ直ぐだった彼が迎えた終焉は、誰にも到達出来ない場所。崇高なまでに美しい魂となって朝日が昇ると消えていったのだろう。

果たしてギャツビーなんて人間はいたのか?

この物語の後に残されたさらなる問い(しかし普遍的な問いでもある)も与えられた気がした。

 

気持ち悪いほどの男、されど美しさという説得力。もはや暴力。誇張もなく、本当に“力”が強い。彼自身も観客も、話が進む中でじりじりと追い詰め、追い詰められるサスペンス。物語の吸引力にぞっとした。月城さんの演技が凄まじい。ギャツビーの見ていた夢を見させられていたようでいて、実はとてつもない現実を見せつけられた感覚。何が真実で、何が嘘? 神の目は何を見ていたのかと見終わった後も問い続けている。そして、人間の価値とは一体。

ギャツビーは死んだ。けれど、デイズィもニックも、トムも生きていく。生きている限り、現実は続く。果たして、彼よりも幸せに生きていける人などいるのだろうか。

正直、男のロマンなどどうでも良い観客なので、(というと誤解を生みそうなので補足すると、男のロマン/女のドリームというより一人の人間で見ていこうという気持ちです)ギャツビーをこの筋で語りたくはないという気持ちが不思議に強く残った今作でもあった。その理由は、ひとえに月城さんの人を演じる力に拠るものだと思っている。

余談だが、月城ギャツビーの弱点は、ゴルフのスウィングだけだった。あれじゃ正直トムとはりあえないだろうけれども(!)、まぁ、そこもご愛嬌ということで。ピンクスーツが大変お似合いなのもグレート!

閑話休題。千秋楽のご挨拶で触れられた原文。私は新潮文庫版を愛読しているためやや訳は違うのだけれど、いずれにせよ月城ギャツビーは、緑の光を目指していたギャツビーだったなと。空から原作者も力強く見守っていただろうと思わせられる人物になっていたと思う。原作と主題歌が地続きで繋がっていて、本当に素晴らしい再演だった。

 

ここで原作で触れられていた山上の垂訓を記載する。

幸いな人たち(マタイ5:3-12)

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。

柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。

義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。

あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。

心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。

平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。

喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。

 

月城ギャツビーを一言で表すなら、最も不幸で、最も幸福<さいわい>な人だった。

 

彼が死んでも、我々は生きていく

海乃ディズィは、死んだギャツビーをこれからも忘れられないだろうと思わせる役作りで、正直意外だった。硬質な持ち味である彼女なら、とことん崇高に、そして愚かに創り上げることも出来ただろうに。絶世の美女という類とはまた違うことを解釈されてのアプローチなのかも。

肝心なところで彼を切ってきたのは紛れもなく自分。愛する彼が嫌悪する資本主義によりかかって生きていくことを選ぶ(しかない)のも自分。根元から断ち切って生きられない彼女の持つ甘さと弱さが彼女自身を真綿で首を絞めるようにじわじわと蝕み、残念ながらこれからも苦しみながら生きるのだろう。つくづく不幸な人だ。しかしそんな不幸をギャツビーも愛したのだろう。

瀕死の白鳥を踊りたいと夢見るデイズィは、金と初恋に取り憑かれた、自分で気付くことすら出来ない馬鹿で愚かな部分があると思うのだけれど、彼女だと決して馬鹿に見えないのが、あの歌を生かしている点で光っていた。

 

鳳月トムは、これまた上手い。唸らせられる。ムカつく、嫌な奴だし、なんならレイシストとしてその存在に反吐が出るが、そこで終わらない存在感があった。なぜなら彼の人生において、彼は絶対的に正しいし、ギャツビーなんて貧乏野郎は理解不能の“ハズレ値”なのだから。演者の包容力がまたその正しさの説得力を後押ししているのだと思うが、紛れもなく彼は彼の人生を生きていた。そんな生命力は、ギャツビーを汚しもしない、格差社会を圧倒的な異世界感で見せていたのが印象的だった。少なくとも当時においては(と書いておきたい)、彼も資本主義も揺るがない。

 

しかし、この物語でパメラが贖罪とされるのは、神から見たら人間の愚かさなのかと、子がいる人間としてどうにも苦しまされる。ギャツビーとトムが言う「パメラがいるんだ」の台詞の差もあるが、ギャツビーにも問いたい。未来は取り戻せるんじゃないのか? 自分は良くてもディズィには闇(決して明かせない嘘)を背負わせられない、それが愛だというのか。バレなきゃ良い、それなら結局ギャツビーもトムも、そしてデイズィも同罪だ。犯罪者の子として生きていくことの重さに対する思考の放棄なのでは、と別の視点でもやもやも生まれつつ、子どもという存在はキリスト教という視点で見ればむしろギャツビーとニックの関係性に、一つつながりを見いだせるのではないかとさえ思った。

 

代えがたい隣人の存在

風間ニック。正直ニックってこんなに魅力的なんだっけ、と思わせられた。観終わり、そうか、演者の底力を見せつけられたのだと呆然としながら気付いた。

ただの隣人、されど隣人。ギャツビーの、デイズィの、トムの、ジョーダンの、それぞれの隣人であり続けた彼は、観客の隣人でもあったからこそ、本作への共感と本人のギャツビーという物語への陶酔をも生み出していた。

隣人という言葉は、キリスト教においてとても重みのある言葉だ。劇中の台詞で、ちゃんとこの言葉を残していることに意味をもたせるのがニックだったのかと、今回の公演で初めて気付かされた。冒頭に書いた、なぜグレートなのか。その問いに気付かせるのも、ニックという人だったのかと。改めて凄い役だ。起承転結の起と結を確実に担っていた。

隣人に神の眼。そして墓標の言葉といったキリスト教のアイコンだけでない。原作で示されていた東部と西部の対比。根強い格差。そして偏見。加えてアメリカン・ドリーム。アメリカのあの時代に切っても切り離せない空気が、ニックを筆頭に舞台に存在する一人ひとりから漂っていた。素晴らしかった。

墓標に刻まれた言葉を胸に、彼もまた彼自身の人生を歩んでいく。そこにギャツビーもジョーダンもいない。けれど、きっと彼はもう一人ではないのだろう。あたたかく、さみしい場所を知っているから。

それにしても、レッスン中にジョーダンにキッスしちゃうニック可愛い。私の心にも見事ホールインワン!(聞いていない)

ちなみに、風間さんのカフェブレイクで、彼女が月城さんからかけられた言葉がまた深く、この人たちの芝居への情熱を見逃したら人生損をすると、割と本気で思っている今日此の頃。ただのファンです。

 

いつの時代も、女の生き様に心揺さぶられる

彩ジョーダンはとにかくお洒落で洗練されていた。デイズィとの親友関係かつ対等・対比関係が素晴らしい。学年差が小さいことが良い味。
そして、何が真実なのか? と思わせる絶妙な女二人の距離感が素晴らしく良い。
最後の潔さは、かっこよくスマート。お見事。都会的で、切り開いてきた女。こういう人が“幸せ”になるんだよ、という未来に対するフィッツジェラルドの思いが込められているような気がしてならない。(分かっているのに、彼自身はどうしたって不幸なデイズィを愛してしまうのだろうけれど)

そういう意味で、天紫マートルの存在感をもっと感じたかった。トムとの持ちつ持たれつの共犯関係をもっと味わいたかった。じゅりちゃんはブエノスアイレスの時も思ったけれど、元男役ということで押し出しが強そうで、実は引くタイプなのかと感じている。パーティーに押しかけちゃってもトムが一緒に踊りたくなる、そんな強引で自分勝手で、抗えない魅力がもう少し欲しかった。けれど灰の谷で燻らざるをえない哀れさは非常に伝わってきた。

 

同じく痛々しいのが、光月ウィルソン。金持ちの女と貧乏な男は結婚できないが、貧乏な男と女は結婚できるし、貧乏な女と金持ちの男は恋仲になれる。幸せかどうかはさておき。彼は彼なりにギャツビーと同じくカリフォルニアでマートルと幸せに暮らす夢に向かってひたすら生きていた。見たくない現実には結果として蓋をすることが可能となり(なぜなら彼女は死んだ。死人に口なし)、見たい夢だけを見て。事故の後、夢が壊れて彼の中の神だけがのこった。神格化したマートルに導かれ、彼は引き金を引いた。ある意味、ギャツビーもウィルソンも“同じ”なのだなと感じた幕切れ。
しかし、本音を言えばここの場面で幕切れとしてほしかった、言わずもがなアルジェの男強火担である。

 

月組という団体芸

その他印象に残った方をちらほら。

礼華はるさん。すっかりメーンキャスト。貫禄さえ感じる。前作のブエノスアイレスからの好演続きにトキメキを感じてならない。

彩海あみさん。二幕冒頭、何なんですか。歌が上手すぎる……と言葉を失い圧巻される一時。演技も素晴らしく、顔の可愛さに騙されてはいけないなと毎度良い意味で裏切られてしまう。御本人の魅力が毎度あふれていて感動する。

夏月都さん、晴音アキさんがまた良い味を出されていて。寂しくなります(エドワード8世)。

輝月ゆうまさん。まゆぽんは専科としての出演。いやはや色気も凄くて、以前拝見した越乃リュウさんとはまた違った骨太な魅力にあっぱれ! 頼もしさしかない。アイスキャッスルの場面は目が足りなくて困る。あそこだけ何度でも観たい。

 

構成として、本音を言うならば一本物にするよりやはり一幕物にし、別建てのショーがほしかった。(だってグランドホテルだって一幕物にできるんだから!)
ギャツビーの心情に2時間半引きづられる羽目になるのが中々に辛い。

しかし、舞台装置はとても素敵だった。フィナーレの衣装が舞台装置のデザインとリンクしているようで、そこも洗練された印象を作り上げていたと感じた。

個人的には、フィナーレは好感の持てる内容だったので許せたし、名曲でのデュエットダンスにはむしろ心掴まれた。というのも、ストーリー仕立てのこのダンスにおいて、月城ギャツビー(と言って良いと思う)の幸せそうな御顔は、この作品のパズルの最後のピースとして完璧だった。

※ヒップホップしだしたらそれこそ客席で暴動だった。ヒップホップは月組ロミジュリで始まり、そして終わりでよい。

 

と、挙げれば切りがないが、どこをとってもおいしすぎる月組。トップを中心とした芝居が実に重厚で贅沢。隙がない。この体制で果たしてどこまで行くのか、楽しみなような、切ないような。秋風のせいか。刹那は宝塚の醍醐味だけれども。

月城さんが万感の思いで役に向き合われたのだなと、千秋楽のご挨拶を聞いて感じた。心底良かったと思った。限られた時間での確かな手応え。それを目の当たりにすることができた奇跡。

幸いなるかな、死して雨に打たれる者。

月の光に見守られる者たち。これからも、どうか。

 


f:id:nonbach:20230922235259j:image



余談:スターへの思い

暁さん。ありちゃんがいなくて大変寂しかったけれど、ありちゃんの居場所が良い意味で無いと感じたのが今作。私は彼女のお芝居も好きだけれど、色々とストレートが過ぎるのかもしれない……と、ブエノスアイレスの風とモンテ・クリスト伯を観ての最近の感触。今後、礼真琴さま率いる星組さんもとても応援したい所存、とぼやいて唐突に終わる。